木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第一六話

 

コンサートに、いらしたお客様たちが、ホール前で、名残惜しく話をしている。

見送りに出た私は、そろそろと、思い、後片付けを始めた。

 

着替えをして、ホールを出ると、小西さんが、まだ、お客様と話している。

それを、待った。

もし、小西さんに、時間があれば、お礼の意味も込めて、軽く食事をと思った。

 

ようやく、お客様が帰り、小西さんが、こちらに来た。

奥様と、子供を一度家に連れて戻り、友人のやっているお店に連れてゆきたいと言う。

私たちは、最初のホテル、モントリーホテルの前で、待つことにした。

 

荷物があるので、一度ホテルに戻り、手ぶらで、モントリーホテルの前で待った。

 

小西さんは、少数部族のアカ族の女性と、結婚し、子供が生まれたばかりである。

その小西さんの、転変を書けば、また、長くなる。

簡単に言う。

とび職をしていた小西さんは、大事故、転落し、九死に一生を得る。それから、人生が変わった。見た目には解らないが、障害者手帳を持つという。その事故の程度が解る。

 

世界を見ないで、死ね無いと思う。

大学を出ていない小西さんは、オーストラリアに行き、そこで、日本語教師のライセンスを取る。

そこから、タイに渡り、タイ語の勉強を始めた。

そして、現在の財団が人員募集しているの知り、応募する。

 

最初は、日本語教師だった。しかし、財団の本当の活動、追悼慰霊の様を見て、大きく心を揺す振られた。

ついに、チェンマイ事務所の事務長になり、現在に至る。

 

奥さんは、財団の支援で、日本に留学した方で、日本語が出来て、最初は、財団で働いた。

その縁で、結婚することになった。

 

小西さんが来たので、車に乗り込んだ。

向かったのは、ホテルの道なりに進む、旧市街の外れである。

旧市街は、運河で、囲われている。

その角の辺りに、また、色々な店がある。

私には、新しい場所だった。

 

日本人の夫妻が経営する、居酒屋である。

 

私は、疲れて酒を飲むことが出来なかった。

小西さんと、野中が、ビールを頼む。私は、アイス緑茶を頼んだ。

 

改めて、互いに感謝の言葉を述べ合う。

そして、この出会いを喜んだ。

 

一週間前までは、知らない人だった。

人の出会いは、不思議であり、その意味を問うことは、出来ない。会うべくして逢うのである。

 

そして、まさか、そういう話が出るとは、思わなかった。

死ぬはずだった、自分が生きたと言う。それから、人生について考えた。そして、宗教に行き着いた。

特定の宗教を超えて、霊の存在について、考え始めたという。

結果、九割は、自分以外の別の力で、生かされている、動かされていると感じた。

自分が三階から落ちて、生きたが、同僚は、二階から落ちて亡くなったという事実に、不思議を感じたと言う。

 

思えば、私が慰霊をしている際に、小西さんは、休んでいた下さいと言うが、じっと、私の後ろで、立って、見ていた。

私が、終って、うーという音で、お呼びし、おーという音で、御送りすると言った言葉に、ある宗教の言霊学を学んでいた小西さんの、心が動いたのだ。

 

小西さんも、慰霊の際に、お経を唱えていた。また、遺骨収集の際も、慰霊する心と、共に、祈りを行っていた。

そして、霊の存在である。

遺骨収集の際に、それに関わった人に、兵士の霊が現れるという。

それで小西さんは、兵士の霊に逢いたくて、慰霊碑の前で、一人寝たこともあると言う。

 

霊的存在を知る者だから、追悼慰霊の活動を行う、財団の活動に共鳴したのである。

最早、霊の存在の有無ではない。霊の存在があるとしての、追悼慰霊である。

それは、私と同じ考えである。

 

約一時間半ほど、様々な話をした。

実に、有意義だった。

 

奥さんのアカ族の話も聞いた。

少数部族と言われるアカ族だが、大きく分けて、三種類あるという。

ミャンマーとタイに、渡り、点在して、その伝統を守り、生き続けている。

ある話で、驚いたことがあるが、それは、これから調べて、確認してから、書くことにする。

 

私たちを、アカ族の、奥さんの村に連れて行きたいと言ってくれたので、いつか是非、行きたいと思った。

 

私たちは、小西さんに分かれて、トゥクトゥクで、ホテルに戻った。

すでに、深夜12時に近い。

 

本日は、充実した疲れである。

 

私は、最後の予定を終えて、安堵し、さらに、自分が始めたことの、事の重大さに、気づいた。そして、愕然とした。

これを、人に理解して貰うことは、至難の業であると。

 

今更、戦争犠牲者の追悼慰霊をするという行為は、それなりの組織や、宗教団体等ならば、理解されるが、単独で行うという、その意味を理解して貰うには、語り切れないのである。

 

大げさなことを言う。

日本再生のために、そして、千年の日本のために、しなければならないと、思うのだ。

 

霊の存在を知らしめるということではない。

見えないものを、真実大切してきた、日本民族の姿を、私が実践しなければ、説得力が無いのである。

この行為が、土台にあり、日本についてを、語ることが出来ると、考える。

 

太平洋戦争だけの問題ではない。

日露、日清戦争と、日本が、歴史のご多分に漏れず、戦争をしたことを、追体験することで、観えるものを、観るのである。

 

人類の歴史は、戦争の歴史である。

世界の、九割九分の人は、戦争を望まない。

一分の人が望むことに、何故、多くの人の犠牲があるのか。

 

現在も、戦争の種が尽きない。

分析をよくする学者の話ではない。

戦争犠牲者から、話を聴くこと。

つまり、その霊位から、話を聴くこと。

死人に口無しである。しかし、彼らの思いは、必ず伝わる。また、その思いを、こちらに、発信している。それを、受ける受信機となるべくの行動だ。

 

イタコ降ろしではない。

また、単なる霊的現象や、憑依現象ではない。

その場所に出掛けることで、伝わる、波動である。

勿論、思い込みという場合もある。

思い込みの、自己満足であるならば、私の活動も、長くは、続かないだろう。

 

死者に対する作法とは、何か。

古代から、日本民族、いや、すべての民族が、死者への手向けを行ってきた。何故か。

霊の存在が無いのであれば、それは、意味が無い。

 

日本の伝統である、先祖崇敬が、霊の存在の確たる証拠であることを、身をもって知ることである。

 

文明が進化することは、素晴らしいことである。

その時、最も失われやすいものは、私が生きている土地、国に対する思いである。

単なる、愛国心というものではない。漠たるものではない。

 

何故、この地に、この国に生まれて、生きるのか。

民族の元を辿れば、アフリカの数百人程度の、人類の祖先にある。

それらが、枝分かれして、民族となり、国という、縄張りを作る。

 

民族と、国という意識を持つことで、何を得たいのか。生きるとは、何かである。