ミクロネシア チューク諸島 戦没者海上慰霊

平成20年1月24〜28日



 ミクロネシアのチューク諸島は日本の南の果てにあります。飛行機でグアムまで行き、乗り換えに7時間を費やし、到着したときはへとへとになっていました。

 港のボートは、さっこんの石油高により、漁師は漁に出られず、周りの島々へ連絡する用途の他は、ただ浮くにまかせているといった有り様でした。

 その猟師と話をつけて、海上慰霊のためにボートをチャーターすることにしました。


 チュークとは、どんなところか、いったいどんな人が住んでいるのか、行ってみるまで前情報は全くといっていいほどありませんでした。

 ただ、美しい環礁と、その内側に沈んでいる旧日本軍の艦船43隻、民間船200隻、ゼロ戦、さらに米軍の沈船をふくめ、ぼう大な数の沈没物があり、それらがダイビングスポットになっていて、世界中からダイバーが集まるという噂はきいていました。


 今回慰霊のためにチュークを訪れるきっかけになったのは、産経新聞の朝刊一面で、旧日本軍の海没者の遺骨が海底に並べられてダイバーの見世物になっているという記事を見かけたことからでした。

 それが事実であれば、ゆゆしき事態です。本当にそういったことが行われているのか、事実究明がひとつの目的でした。その問題は意外な答えを得ることになります。


 島の人たちは、ほとんど英語が話せます。現在はアメリカの統治を受けているからです。戦前は国連の委任統治領で、日本が統治していました。その前はスペイン、ドイツの統治時代もあり、チューク人にはさまざまな血が混入しています。曽祖父にドイツ人を持つ人、日本人を持つ人、アメリカ人を持つ人など、それぞれこの島の一すじ縄でいかない歴史を物語っています。苗字も、サンチェス、ナカムラなどさまざまです。日本統治時代の病院を利用して造られた高校は「マナベ高校」だったりします。


 島唯一の市場に並べられている海産品は、おどろくほど貧弱です。私たちがたずねたときは、マングローブの根にすむカニの他、何一つ上がっていませんでした。魚一匹無いのです。レストランの料理も全て輸入品でした。まわりは360度海に囲まれているのに、信じられないことです。島には産業が何一つなく、かつてココナツオイルの工場があったのですが、いまは操業していません。道路は穴だらけ、電気も水道もあるかないか。文明と逆行していっている状況です。


 何することなく一日中座っている漁師たちに声をかけ、ボートをチャーターしました。旧日本軍の艦船の沈んでいるところを知らないかときくと、知っているというので、まかせることにしました。

 チャーター代は先払いで、何とその時点で石油を買いに走るのでした。自転車操業どころの騒ぎじゃありません。ほんとうにお金が一ドルもないようなのです。


 さて、無事石油を給油して、ボートは島を離れて、かつての日本統治時代の中心地、夏島をめざし、波をかきわけてすすみます。

 漁師さんがブイを見つけてボートをつなぎました。この下に潜水艦が沈んでいるそうです。深すぎて下には何も見えません。今まで見たどの海の色ともはっきり違う、深い深い紺色というか、群青色というかの海の色です。


 夏島の全景です。日本統治の頃は、病院や学校もあり、道路も整備されていて、いまのグアムより良い街並があったそうですが、いまは全てジャングルに戻っており、少数の島民が暮らすだけになっています。

 昭和18年、戦艦大和もここに停泊しています。この写真はおそらく上の写真とほぼ同じアングルで撮られたのではないかと思われます。チューク(トラック)島は連合艦隊の停泊地だったので、最後まで海軍は手放したがりませんでした。


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