ミクロネシア チューク モエン島の大砲を視察

平成20年1月24〜28日


 慰霊もとどこおりなく終わり、あとは国に帰るだけ、という段になって、ひょんなことからとある家族と仲良くなりました。

 モエン島には道路は一本しかありません。その道路を、人々はどうやって暮らしているのかと、ひたすら歩いて観ていたのです。

 道路をはさんで、山側の斜面に掘っ立て小屋を建てて住んでいる人と、海側の猫の額ほどの平地に住んでいる人といます。

 運良く政治家になれれば、外国からの援助金を我田引水して、比較的住みよい家を建てたり、ヴィデオカメラを買うこともできますが、そうでなければ、政府からの援助金はなく、ほぼ無一文です。


 しばらく歩くうちに、「コーヒー飲みませんか」と声をかけてくる人がいました。 道端の店らしいところで、いっぱい25セントのコーヒーをいれてもらい、一息ついているうちに、家族がわらわらと集まってきました。 たまたまもっていた菓子パンをあげると、みんな半分ずつわけてとなりの人に渡していくのです。

 相互扶助の考え方が行き届いているのに感心していると、声をかけてきた男性に、日本軍の残した大砲があるので見にいかないかと誘われました。

 出発の時刻までまだ半日以上あったので、見に行くことにしました。


 斜面をどんどんのぼっていくと、突然視界が開け、ものすごく気持ちのよい海風が吹き抜けていく丘に出会いました。

 ジャングルを切り開いた広場になっていたのです。あまりにも気持ちがよいので、そこで一休みすることにしました。

 やしの木かげに、おばさんが寝転がっていて、かたわらでウクレレを弾きながら少年が歌っています。まるで絵に描いたような南洋の楽園の風景です。

 そのあたりに植わっている木から、きんかんの実のようなものをとって、つぶして砂糖をまぶして食べています。これがとっても酸っぱいのです。

 やしの木に登ってやしの実をとってくれたので、新鮮なココナツ・ジュースでのどをうるおすことができました。


 十分休んでから、日本軍の大砲をめざしてジャングルに入りました。いつの間にか一行は大所帯になり、13人ほどの少年たちが一列に並んで、繁みのなかを行きます。行く手に木の枝があると、丁寧に手で押さえて歩きやすくしてくれます。列の最後尾ではウクレレ付きの歌を歌う子がいて、ぜい沢にもBGM付きのハイキングといった風情。

 道すがら、木々に埋もれた、かつての日本軍の基地がありました。誰がつくったのか、日本人の墓がありました。イエス像には誰かが花を供えていました。

 かなり奥に入り込み、やっと大砲にたどり着きました。ちなみに現地の言葉でも「たいほう」といいます。他にも「びょういん」「じどうしゃ」など、文明に関わることばに、日本語が相当残っています。

 まあしかし、本当によくこんな山奥に大砲や基地など建てたものです。ただただ驚くばかりです。

 砲身は人が何人乗ってもびくともしません。筒のなかはまっすぐで、向こう側がよく見えます。子供たちの探検場になっているようです。

 まわりに大小さまざまの穴が開いていて、戦時の米軍の攻撃がいかにすさまじかったかを、今に伝えています。

 日本軍の基地のあった頃は、このあたりもとても良かったそうですが、いまは木々に覆われて、当時の面影を偲ぶものも何もありません。

 大砲に座って恰好つけているのはジュニオ君です。私たちのために、ガイド役をかって出てくれました。

 子供のように見えますが、14歳の中学生です。


 下山とちゅうに、一休みしました。真ん中の白い服の男性がお父さんで、この村にリーダーに当たる人はいないのかきいてみると、いないということでした。

 彼はグアムで5年間、道路舗装の仕事をし、いまはチュークに住んでいて、現金収入のほとんどはグアムで出稼ぎをする息子にたよっているとのこと。

 食べ物は、タロイモというのでしょうか、木になる実を大鍋でバナナの葉でふたをしてやしの実の内側の皮と一緒に煮たものを、片手用のきねのようなものでよくたたいて、もちのように練って、食べていました。

 服は現金がないので買えず、グアムから送ってもらうだけということです。テラの会では、子供服の寄付を受け付けています。次回行くときは、たくさん子供服をもってくると約束してきました。


 画面右端から、日系、アメリカ系、純粋チューク人の、ホテルの従業員の女性たちです。左の二人は子持ちです。 

 出発時刻が近づきました。短い滞在でしたが、他では決してできない貴重な体験ができました。どういうわけか、日本のことが頭をかすめもしないのが、印象的でした。まるで、あの世とはこんな感じかと思えるような、不思議としかいいようのない感覚の日々でした。

 画面左の女性は、沖縄人の曽祖父を持つナカムラ・ジュディさんです。曽祖父は戦後一度沖縄へ帰り、またチュークに戻って、この島で亡くなったそうです。ジュディさんは言いました。日本に帰ったら、あなたのおじいさん、おばあさんたちにこう言って欲しい、チュークにはみなさんの孫、ひ孫がいまでも元気に暮らしているんだよ、と。

 けっきょく、産経新聞の記事は、出どころがはっきりしないものだとわかりました。

 ある海外支援団体の現地スタッフが、産経新聞の記者に直接ネタを持っていき、事実かどうか調査しないうちに記事になってしまったもののようです。  

 日本兵の遺骨が見れる深さまで潜るためには相当なダイビングの技術が必要とされ、簡単に見世物にできるようなものではないそうです。ダイビングショップをしている日本人からそのことをきいて、今回の旅のひとつの目的が果たされました。

 さいごに私たちにさよならをいいにきてくれたのは、ジュニオ君と、その親戚やいとこたちでした。


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