タイ クワイ川鉄橋戦没者慰霊  その1

平成20年4月16日


 猛暑のタイの夏本番、バンコクからバスで西に二時間ほどの、カンチャナプリーに来ました。

 ちょうどタイ正月のソンクラーン・フェスティバルのまっただなかだったので、バンコクは「ソンクラーン・レベラー」と言われる、水と白い粘土をかけあう人たちであふれんばかりです。

 タイ全土でおよそ500人が期間中に亡くなったということをきき、信じられない思いでしたが、第二次世界大戦中の1942年に着工された泰緬鉄道の建設工事で亡くなった人の数も、また信じられない多さです。


※クワイ川鉄橋までのせてくれた謎のおじいさん。あまりにもタイミングよくあらわれたので、きつねにつままれた思いだった。

 バスは目的地のクワイ川鉄橋から少し離れたところで私たちを降ろしました。照りつける日差しのなか、歩いて鉄橋まで行くことに呆然となっていると、とつぜんバイクに乗ったおじいさんが現れました。 お金はいらないから乗れ、ということで、鉄橋まで送ってくれました。着物を着ていたので日本人だとわかったのでしょう、それも好意で乗せてくれたということは、日本人の印象はそれほど悪くないようです。 こんな好意は旅の中で後にも先にも一度きり、たいへん驚き、かつ喜びました。  


 クワイ川鉄橋は、いまでは観光地になっています。欧米人や、イスラム教徒の姿も多く見受けられました。

 橋の下を、ときおり屋形船のような水上ディスコ・ボートが爆音とともに行き過ぎます。カンチャナブリーはタイ人にとってもっとも魅力的な観光地だということです。

 橋の上はあまりにも観光客が多かったので、慰霊をする雰囲気ではなく、とりあえず戦時中に日本軍鉄道隊が建てた戦没者慰霊碑にむかいました。

※自動車のエンジンで動くミニ列車が観光客を満載にして、ひっきりなしに橋の上を往復する。この他にバンコク発の観光列車、シンガポールからオリエンタルエキスプレスも通るという。 


 1942年6月から、1943年8月の完成を目指して開始された工事では、鉄道建設に従事した各国の戦争捕虜たち61,000人のうち、最終的には12,399人が亡くなったと、現地のメモリアルに記載されています。また、約250,000人のアジア人労働者(正確な数字は不明)については7〜9万人が亡くなったと推定されています。

 これほどの犠牲者が出た理由は、食料不足、医療設備の欠如、そして残虐な暴力行為などの原因が考えられます。

 「労務者」とよばれたアジア人労働者たちは、軍医による治療の受けられた戦争捕虜と違い、医者がいないため、ごく基本的な治療さえ受けられず、栄養不良から脚気、ペラグラなどの病気にかかり、マラリア、赤痢、コレラ、熱帯潰瘍にも悩まされたようです。

※シャツを脱いで鉄橋をあるく欧米人が後ろに写っている。それほど暑い日だったのだが、彼らはじぶんの祖父にあたる人たちがここで若くして大勢亡くなっていることをどう思っているだろうか。

 昭和19年2月に、日本軍鉄道隊によって建てられた慰霊碑を訪れました。碑には、

「泰緬甸連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ弊レタル南方各国労務者及捕虜ノ為此ノ碑ヲ建テ恭シク其ノ霊ヲ慰ム」昭和19年2月 日本軍鉄道隊」

と刻まれています。

 毎年3月下旬には、在タイ日本人有志の方々による慰霊祭がここで行われているということです。また1996年から日本の仏教宗派の僧侶たちによる法要も行われているとのこと。

 丁度その日も、私たちより一足先に、高野山の僧侶以下16名の信者らしき団体が訪れていたようで、来訪者名簿にその名が記されていました。


 たいへん強い日差しのなか、追悼慰霊を行いました。バナナを市場で買ってきて供え、付近の木から小枝をひとふりいただいて、御幣をかけます。

 あまりにも激しい真昼の直射日光を受けている木村天山を気遣ってか、碑の番をしてくれているタイ人の女性が、ビーチパラソルを立ててくれました。

 その後クワイ川鉄橋にもどり、慰霊に使った御幣を川に流しました。



 御幣は川を下流のほうへゆっくりと流されていきました。

 つぎはカンチャナブリ連合軍墓地にむかいます。かつての捕虜収容所跡地に建てられた最大規模のもので、イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、また英軍に従ったインド兵の遺骨が、戦後すぐに沿線各地から掘り起こされて埋葬されたところです。

 その様子は次回お伝えします。

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