木村天山旅日記

 

タイ旅日記 平成20年6月 

 

第4話

戦うために、道を作る。

日本軍が、タイに道を作ったのは、二本である。

最初の計画は、八本の道だったが、最終的に、二本に絞られた。

 

その一本は、バンコク・チェンマイ・メーホンソーン・トンウーに、続く道である。

そして、もう一本は、バンポン・カンチャナブリ・ダンチェリー・サンオン・タンビュー・ザヤップである。

この、二本目の道が、泰緬鉄道とされる。

 

タイと、ビルマは、それまでに、44回の戦争をしている。その時に使用された道が、泰緬鉄道の道でもある。

 

幅一メートルで、全長414.9キロである。

始発点は、ラーチャブリー県バンヌンパルックで、カンチャナブリ県の、東北部を通り、ケオノイ・ダンチェリーサンオンを通り、ビルマに入る。

 

ビルマの、タンビューザヤップにつながり、それによって、ビルマは、日本の支配下におかれた。その後、インドのインパールへと、入るのである。

 

時は、昭和17年である。

その後は、中国の南側の道を通り、インドへ入る。

 

当時、チェンマイから、メーホンソーンの道は無く、日本軍によって、道が作られたのである。

 

そして、敗戦の色濃くなった頃、インド、ビルマに出た日本兵が、タイに戻って来た。

そうして、辿り着いた場所が、クンユアンのバンホイトヌンである。

何千人という数の日本兵が、そこで、亡くなった。

 

バンホイトヌンとは、博物館のある場所である。

 

インパール作戦については、前回のタイ、遥かなる慰霊の旅に書いている。

 

さて、この道の建設に、携わった者たちは、タイ人が多い。

日本軍は、メーホンソーンの、タイ人だけでは足りないと、チェンマイ・ランプーン・ランパーン・チェンライ・プレーの各県から、人を集めた。

更に、驚いたのは、建設道具が、ナタとクワだけだというのだ。

 

最初は、人が一人通れるほどの道だったところを、山を削り4メートルの幅に広げて、作っていったのである。

 

ここでも、忘れてならないのは、日本人だけの、死者ではないということだ。

建設現場で、多くのタイ人も、亡くなった。

食料の不足と、現場の危険。そして、山の病である。

一番、多くのタイ人が亡くなったのは、メーホンソーンに入る手前、40キロ地点の、アンプーパンマパーのドイタンマケンという場所である。

 

一日に、40人から、50人が、死んだと言われる。

 

建設中は、川原にキャンプを張って、過ごしていた。

火葬をする暇もなく、多くの人は、川沿いに土葬された。

メーナムコンからメーナムパイまでの、川沿いに、多くのタイ人が、埋葬されている。

 

日本人の、追悼慰霊も、更に、タイ人の追悼慰霊も、必要なのである。

 

救いは、日本人と、タイ人との、友好関係だ。

皆、タイ人の家に、泊まったりと、友好を深めたという。

物資の物々交換も、よくしていた。

 

日本人が、タイ人と、共に、建設現場で、働いていたということで、私は安堵した。タイ人を、ただ、監視していたとすれば、余りに、むごいことである。

 

更に、日本軍は、別ルートの道も、作っている。

クンユアムから、チェンマイに抜ける道である。それは、三箇所ある。それらは、すべて、敗走の際に使われたという。

 

クンユアムでの、日本兵の生活は、二つの種別がある。

一つは、道路建設の日本兵である。

彼らは、日本が、戦争に勝っていた頃の兵士で、生活は、豊だった。

当時の、クンユアムの村人は、貧しいが、タイ国が、日本兵を支援せよとの、命を下したことから、村人たちは、日本兵に、食料を売った。

勿論、日本兵は、それらを、お金で買った。しかし、それは、日本軍が、紙幣を、いくらでも、作ることが出来たからである。

 

さて、もう一つの、日本兵は、ビルマから、逃れて来た者たちである。

これは、悲惨だった。

 

日本軍には、食料が、ほとんどなかったという。

また、タイへ行く道は、各地で、寸断されていた。

ビルマにいる、日本兵は、最悪の状態だったという。

 

余談であるが、哀しい話がある。

今でも、ビルマ国境の町、タチレクから、タイ側の、メーサイの町に掛かる橋に、日本兵の幽霊が出るという。

幽霊は、橋を渡り、タイ側に入ろうとするが、入られず、また、戻って行くというのだ。

 

私が、前回、タチレクの川沿いで、追悼慰霊儀をと、思ったことは、間違いなかった。

 

前回は、時間無く、トゥクトゥクのおじさんとの、言葉のやり取りが、出来ず、慰霊をすることが、出来なかった。

残念である。

 

次の機会には、必ず、川沿いにて、追悼慰霊をしたいと、思う。

 

日本兵が、ビルマから敗走して来た時は、寺、村人の家、学校、村の病院などに、住んだという。

どこも、一杯の状態だった。

更に、村の家の、一軒に、5人から20人くらいが、住んだという。

その場所の無い者は、道の傍らに、野宿する者もいたという。

 

その際に、日本兵は、村人の生活の手伝いをして助けた。

出来ることは、何でもやったという。

クンユアムの人々は、日本兵を嫌いだと思わなかったのが、救いである。

 

上記の、情報は、チューチャイ警察署長の書いた、第二次世界大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出、という、冊子から、頂いた。

 

以下、私の歌である。

 

戦いは 終わりてありや されど今 今も戦う 霊の悲しさ

 

異国にて 斃れたる人の 慟哭は 我をして ただ 佇むことの

 

遺留品 声無き声の 涙あり 故郷偲ぶ 者の悲しさ

 

品々の 思い伝わる もののふの 意気と無念の 大和魂

 

ああ悲し 君死にたもう ことなかれ 祈る家族も 今は亡き人

 

父母も 待ち疲れては 今は亡く 共に遊べや 神の世界で

 

この祈り 遥かな時を 超えてゆき 天地に寄する 命尊き

 

崩 (かむあがり) されたと祈る 声を聞け われ故郷への 音霊ありて

 

昭和天皇神呼びて歌う

 

皆様へ 天皇(すめらみこと)の お隠れを 伝えて祈る 尽くす哀悼

 

木村天山会心の歌

 

寂しさの 極みに耐えて 斃れたる 兵士の最期 かあさんと聞く