木村天山旅日記

 

タイ旅日記 平成20年6月 

 

第10話

夜の闇。

 

私は、二度、目が覚めた。

目が覚めて、目を開ける。しかし、本当に目を開けているのだろうかと、思った。

何も、見えない。

 

闇である。

自分の手すら、見えない。

 

どこにいるのかすらも、解らない程、深い闇。

 

私は、枕元の、奥さんが用意してくれた、電灯を探した。

それを、取り、スイッチを入れる。

光の線が、走る。

 

当てた部分だけが、照らし出される。

私は、蚊帳から出て、部屋を抜けて、階段を下った。

そろそろと、降りた。

電灯の光のみが、便りである。

 

このような、闇を、私は、知らない。

 

山の中の闇。一つの光も無い。皆無。

物の姿も、勿論、見えない。

私は、階段を下りた、すぐ側で、小便をした。

トイレに行くまでもない。

近いはずのトレイが、遠くに思えた。

 

目の前の、ハバナの木も見えない。

電灯を消してしまうと、何も、見えないのである。

 

私は、足探りで、また、階段を上がった。

蚊帳に入り、また、体を横たえた。

横に寝ている、野中も、光を消すと、見えない。

 

そして、時計を見ると、3:30である。

次に、目覚めたのは、5:30である。

まだ、闇だった。

 

再度、私は、電灯を持って、下に降りた。

矢張り、闇である。

同じように、小便をした。

その時、トイレの方から、水音がする。

まさか、誰かが、水浴びをしている、はずない。

 

だが、確かに、その音を、聞いた。それは、何度も、聞こえた。

朝方、霊が動くという、昔の話を、思い出した。

だが、もしや、この家の、おかあさんが、水浴びをしているのかもしれないと、思いつつ、また、階段を上がった。

 

次に、目覚めたときは、朝の六時である。

日が登り、闇は、消えた。

 

私は、すぐに、下に降りた。

奥さんが、朝ごはんの仕度をしていた。

鶏が、凄まじく鳴く。

これ見よがしに、鳴く。

隣近所の鶏も鳴く。兎に角、煩いくらいに鳴く。

 

一羽の鶏が、籠に入られていた。

私は奥さんに、これは、どうしてですかと、問い掛けた。

奥さんは、おかあさんに、声を掛けて、聞いている。

しかし、私にすぐに、答えない。

私は、もしかしたら、食べるのと、尋ねた。

奥さんが、浅く頷く。

 

私は、昨日、ここの鶏や、ヒヨコを見ていると、もう、ここの鶏は、食べられないと言った。それを、奥さんが、気にしていると、思った。

 

一度、その場を離れて、戻ると、鍋に、蓋がしてある。

そろそろと、鍋を開けた。

鶏の、頭があった。口を開けていた。

これが、朝のごはんの、おかずになるのである。

伝統的な、鶏のスープである。

 

香辛料の役目をする、山菜が、幾種類も、入っている。

 

野中と、小西さんは、酒の飲み過ぎか、中々、起きてこない。

私は、その辺を、周り、時々、鍋の蓋を開けて、中を見た。

お湯の色が、変わってゆく。

鶏の出汁が出ているのだ。

 

食事である。

おとうさんと、小西さんと、私たち二人が、鶏のスープを囲んで座る。

私と、小西さん、野中の前に、別の一つの椀があった。

インスタントの、味噌汁だった。

 

折角なので、私は、鶏のスープを試した。塩で、味付けしただけである。ハーブが利いて、美味しい。そこで、一つ、肉を取り出して、食べた。悪くない。もう一つ、食べた。

朝、殺した、締めた、鶏である。

人は、命を頂いて、命を繋ぐという、当たり前のことを、実感した。

 

その後は、ご飯を、半分にして、味噌汁で、食べた。

 

こんな、貴重な体験は無い。

バリ島、ウブドゥの、朝ごはんも、地元の人は、塩をかけるだけで、食べるという。

おかずが、何種類もある、日本の朝の食卓とは、雲泥の差である。

どちらが、云々ということではない。

 

私は、日本の、メタボなどという言葉など、どうでもいいと思っている。

食べられるのである。

何でも、食べる。

世界の三分の二が、飢えているという。

体脂肪が、云々とは、何事かと、思っている。

これ以上になると、とんでもなく、過激になるので、省略する。

 

本日の朝、それは、結婚式のある朝である。そして、私たちが、バンコクへ向かう日である。

 

夕方四時頃に、この村を、出なければならない。

貴重な一日が、始まった。

 

朝ごはんを食べて、私は、顔を洗うために、トイレに行った。

水瓶が用意されて、そこから、桶で、水を掬い、顔を洗う。

非常に、不便である。

私は、日本の生活に慣れている。

 

ただ、水で、顔を洗うだけである。髭も、そらない。

そして、初めて、大便をした後、左手で、尻を拭いた。

右手で、水桶を持ち、尻に水を落としつつ、左手で、尻を洗う。

尻の穴を触る。

自分の、糞を触る。それを、水で流す。

 

感動。

 

これこそ、エコであろう。

 

何も言うことが無い。

 

自分が、糞をしない者のような、顔をして生きている者、多く、その匂いも、即座に消臭するという、文明社会。いいではないか。しかし、私は、糞小便をする者であることを、明確にしたのである。

 

子供の頃、私の田舎では、喧嘩した後などに、糞して寝ろ、という言葉を吐いた。

何と、やさしい、罵倒であろうか。

 

糞して、寝ろ、である。

 

お前は、糞をする者である。

私は、糞をする者である。

 

これ、最高の哲学であり、思想であり、実存である。

糞が、出なくなったら、死ぬ。