木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第12話

アーネムランド、ゴーブにて、詠む歌

 

風乾く ただ今ゴーブは 冬という されど椰子の木 夏の如くに

 

二十歩の 街の中心 タウンという 我が故郷の 町よりも小

 

アボリジニ 焚き火して 食う男たち 昔を偲ぶ 伝承(つたえ)にありて

 

聖地から、戻って、街に向かう時に、三人のアボリジニの男たちが、焚き火をしているのを見た。

ヨーと手を挙げて、挨拶し、近づくと、一人の男は、眼が不自由だった。

私たちを、誰か知らないと、思い、私は、日本人です。今、聖地で、祈りましたと言った。

すると、一気に顔が和らぎ、私たちを、受け入れる。

 

焚き火には、スーパーで買ったと思える、牛肉を、焼いていた。

肉を切るものは、缶を壊して作ったものである。

器用に、それで肉を切る。

私たちの水を少し欲しいと言うので、ボトルのまま、差し上げた。

すると、缶の中に水を入れ、その中に、肉を小さく切って、入れ、それを、焚き火の上に置いた。

 

少しばかり、そこに、いたが、別れて、街に向かった。

 

仕事なく、やることなく、飼い殺しにされている様である。

政府の、支援金で、生活するという。

 

時々に、道端で、アボリジニの人々に出会った。

ヨーと、挨拶すると、誰もが、挨拶を返す。

 

新しき 学説出たる 人類の 祖先はここの アボリジニになると

 

民族の すべての特徴 備えたる アボリジニなり 歴史覆る

 

オセアニア アジアに近き ゆえなれば アジアと共に 歩めかしとぞ

 

発見されたから、古いとされる。

見いだされないものは、無いものである。

それが、考古学の限界である。

 

今どこか さらに眠れる 古きもの それありて知る 歴史ゆえに

 

歴史も、人の創造である。

 

さて、アボリジニを苦難の極みに、導いた、独善、傲慢な、宣教師たちの、有様を言う。

 

宣教師たちは、アボリジニの大人を、改心、改宗させることの、難しさを知り、スムーズに、キリスト教徒にすべく、子供に注目する。

そして、強制的に、親から子供を手放すように仕向けたのである。

 

子供たちは、遠く離れた、教団施設に、送られることになる。

サリン事件の、あの教団を、思い出させる。

 

これは、アボリジニの、完全崩壊に、結びつく。

世代から世代へと、受け継がれるべき、伝承の子供たちが、いなくなるのである。

 

子供たちは、全く異質の、文化的環境に置かれ、アボリジニの儀礼、儀式、伝承を、学ぶことが、できなくなったのである。

 

教団ごとに、運営される生活は、多少の違いがあっても、キリスト教という、枠の中、ヨーロッパの文化という、枠の中に入れられて、更に、洗脳されることになる。

子供たちは、アボリジニと、ヨーロッパの文明の、中で、隔絶されるのである。

つまり、どちらにも、属せないという、悲劇である。

 

アボリジニの若者は、英語を話し、西洋の服を着て、西洋文化を、善と教えられて、そのように、行動する以外に道はなかった。

それを、見た、アボリジニの長老たちは、絶望した。

 

重要な、親族関係のつながりが、崩壊することになる。それは、アボリジニの根本的な、崩壊である。

 

更に、食生活である。

 

宣教師が、配布する、小麦粉と、紅茶が中心になり、狩猟採取民としての、バランスの取れた、食生活が、崩壊したのである。

 

宣教師から、配布される食料によって、白人に依存する生活が、当たり前となる。

自然と一体となって、生きていた、アボリジニが、その伝統から、切り離されてゆくのである。

 

イギリス人が、紅茶を飲むのは、その、劣悪なイギリスの水のせいである。彼らの飲む水は、泥水のようであり、臭いのである。これを、誤魔化すために、紅茶を用いた。

茶の歴史には、そんなことは、書かれていない。

インドからの、茶葉を、紅茶にしたのが、イギリスだというが、それは、苦肉の策だったのだ。

 

その、食生活が、いかに、不健康なものであるか。

キリスト教精神も、不健康であるが、それも、実に、不健康を、もたらした。

紅茶に、砂糖を、たっぷり入れて飲むようになり、それが、今、多くのアボリジニを、糖尿病にしている。

 

砂糖の加減が、解らなかったのだ。

 

若者たちの、指導者が、宣教師になったことは、アボリジニの長老たちの、資格も、剥奪することになる。

 

アボリジニを、絶滅から、救うという名目で、アボリジニの文化を、破壊するという、キリスト教の神、本来の、姿を、現したといえる。

 

怒りと、嫉妬と、呪いの神である。

人間を、追い詰めて、追い詰めて、そして、赦しを与え、支配するという、手口は、悪魔のやることである。

 

更に、それは、白人入植者たちの、土地獲得を、有利に進めることにもなったのである。

要するに、宣教師たちは、アボリジニの子供を、飼ったのである。

 

今、現在も、このキリスト教の、布教精神が生きていて、同じ事を、様々な土地、国で、行う。

彼らの言う、アガペの、無償の神の愛という、お説が、いかに嘘であるかが、解る。

やり取りなのである。要するに、取引である。

決して、無償ではない。

助けます、しかし、神を信じなさい。そして、我々と、同じように、生きることなのですというのである。

 

イギリスの食事は、今でも、世界的に、最低の食事である。

イギリス料理などというものは、無い。

 

フランス料理は、ベトナム、ラオスによるもの。

中華料理は、日本の、会席料理によるもの。

イタリア料理は、おおよそ、イタリアによる。

アラビア料理は、アラビアによる。

 

実際、欧州という土地は、また、イギリスも、豊穣ではない。

彼らが言うところの、文化、文明などは、ほんの少しの間のことである。

中国、インド、アジア各国、日本などの、文化、文明の、足元にも、及ばない。

ただし、中国の場合は、共産党が、悠久の歴史を、抹消して、善しとしているから、アホも程が過ぎるが、目も当てられない状態である。その、漢字文化は、日本にて、花開いている。

 

インドの、現在の貧しさは、イギリス統治が、原因である。

何もかも奪い、産業革命なるものを、為したのである。

あれは、イギリスが、起こしたのではない。植民地から得た、財によって成ったのである。

 

歴史を、書きなおすべきである。特に、日本の教科書の、世界史を、書きなおす必要がある。

 

次に、私は、これからの、オーストラリアの国としての、取り組みを、検証する。

今、オーストラリアは、国の神話を、求めて、さ迷う。

その神話造りには、アボリジニが、欠かせないのである。

今年の新年に、政府が、アボリジニに、正式謝罪したのは、大きな訳がある。

 

国家を、造るものは、精神である。その精神の、大元に、神話が必要不可欠である。

つまり、国家幻想を、持たない国は、続かない。

ソ連が、崩壊したように、神話と、国家幻想を、もてない国は、崩壊する。

 

ここで、一つ余計なことを、言う。

国家幻想は必要だが、宗教による、妄想は必要ないということである。

国家、国境を超えて、宗教は、それぞれ独自の、妄想を、人々に与えて、その教線を、広げる。

 

国家と、違うのは、国家を造る、民族の神話的幻想であり、宗教は、対立を生むもの以外の何物でもない。

民族と、宗教が、手を組むと、どんなことになってきたかは、歴史が、教える。

 

民族の伝統としての、宗教的情操ではない。

私が言うのは、宗教として、単独の、妄想を、掲げることと、民族が結び合うことである。

それは、独善になり、他を、排斥して、善しとする。

 

ユダヤ教は、ユダヤ人の宗教であるが、これが、ユダヤ教のみ、取り出して、世界を、裁いたとしたら、どういうことになるかは、見ての通りである。

ユダヤ人が、伝統として、その民族の情操にあるものとの、意識にある、ユダヤ教であれば、何の問題も無い。

しかし、彼らは、唯一の神から、選ばれた、民族であると考え、それを、世界に押し付けようとする時、どんなことになるか。

 

更にである。

唯一の神を奉ずる者として、活動する、キリスト教が、行う、世界の判定は、世界を混乱に陥れるだけである。

 

更に、その、キリスト教も、一枚ではない。

カトリック、プロテスタント、英国教会、ギリシャ正教、等々。

 

もう一つ、唯一の神を、奉ずるイスラムである。

そのイスラムが、徐々に、世界に侵食している様、ありありと見える。

そして、それは、政治的行為も為す。

宗教と政治が、結びつくと、どのようなことになるかは、見ての通りである。

 

西洋の中世を、見れば解る。