木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第15話

アボリジニ その生き方に 観るものは 大和心の それに同じく

 

我は泣く アイヌと共に 我は泣く アボリジニなる 人の尊さ

 

大地こそ 祖先の夢と 観る心 大和心の その心あり

 

我祈る 言の葉なくて 音霊の ア音の揺れる 音の強弱

 

言挙げは せずとも善しと 鶴示す 祈りの間 微妙だにせず

 

さらにまた 一羽の鳥が 我が前に 止まりて静止 動くこと無し

 

祈りては 風平らけく 波静か されど水底 湧き出ずる波

 

注意せよ ワニに食われる ことなかれ 聖地への道 ワニ現れず

 

父もあり 母もありてぞ 子もありて 恵みの大地 揺らぐこと無し

 

 

ジャルーの家から、タクシーを呼んで、モーテルに戻った。

夕暮れである。

 

思わぬ出会いであった。

 

部屋に戻って、言葉無くして、暫く、休んでいた。

野中も、何も言わない。

 

食事のために、外に出ることもない。

野中は、帰り支度をしている。

 

ああ、ここにも、又、来なければならないと思う。

ケアンズを通らない道とすると、バリ島を経由し、ダーウィンに入り、ゴーブに飛ぶのである。

来年の二月は、一ヶ月、バリ島に滞在する予定である。

その時、かも、しれない。

 

思えば、実に静かな町である。

風の音のみである。

泊り客も、いるが、あまり顔を合わせないのである。

 

プールもあるが、誰も入る者はいない。

私は、何度か、プールの中に足を入れて、洗った程度である。

 

残ってある食料を、二人で食べは始めた。

レタスを、そのままで食べて、美味しいと、はじめて思った。

最後に、レタスを、バリバリと食うのである。

 

明日の朝のタクシーの手配もしている。

後は、寝て、六時前に起きて、六時半に約束のタクシーに乗り、ケアンズ経由で、日本に帰るのである。

 

旅の終わりは、また、格別の思いがする。

惜しいような、帰るのが、また、嬉しくもありと、複雑である。

これは、旅なのである。しかし、通常の旅とは、違うのである。

出会った人々と、再会しなければならない、旅なのである。

 

反日感情の強い、ダーウィンにも行き、追悼慰霊をしたいと、思う。反日の音頭を取るのは、中国系だと、聞く。さもありなんである。

現在の中国は、反日によって、辛うじて、国家の体制を作るものである。

ただし、三代目、四代目が、それで、続くだろうか。

国民を、一つにまとめる時の、唯一の方法が、反日なのである。

アホらし。

 

小野妹子を、書いた時、随分と、隋、唐の歴史を調べたことがある。

そして、その前後もである。

そのような、大切な歴史を、中国共産党は、すべて、否定した。つまり、自国の歴史を否定する者に、国家など、築ける訳が無い。

中華思想だけは、持ち続けるという、ザマである。

 

最も、大切な言葉、漢字の文化も、日本にて、完成したのである。

中国古典を、学びたければ、日本に来て、学ぶことである。

 

日本は、真似をしたのではない。

それを元に、創造したのであり、オリジナルを造ったのである。

 

シャワーを浴びても、寝ることなど、出来ない。

歌を詠むことにする。

 

いや栄え 弥栄と呼ぶや いや栄え ふたたび弥栄 いや栄えかし

 

アボリジニの伝承と伝統に、捧げる。

 

ただし、イルカラの人々は、飼い殺しされている。

しかし、彼らの、祭りの時を見ていない。

私の見たものは、ほんの数時間である。

 

野中が言う。

長老に従わない、若者が、多くなったと。

世代の断絶を、他者から、もたらされたのである。それは、痛手であった。この地は、守られていたはずであるが、キリスト教は、放って置かなかった。

カトリックも、プロテスタントもあり、ミッションが、ボランティアをしている。それに、頼る、頼らざるを得ない、アボリジニの人々である。

 

唯一の神は、世界の唯一であるから、手がつけられない。

 

改宗させて、取り込み、すべてを、ぶち壊す。

 

戦後の日本にも、多く、乗り込んで来た。

しかし、キリスト教徒は、いつも、国民の3パーセントの信徒の数を、守っている。それ以上にならない。

更に、日本人は、七割が、宗教を信じないのである。ではない、宗教団体を、信じないのである。

宗教的情操は、多分に持っている。

それの、吐き出す場所を知らない。忘れたのである。

 

実は、生活の中に、自然に溶け込んでいる。それを、思い出せばよい。

 

政府を非難し、批判することは、必要なことであるが、その我が身は、どうなのか、である。日本の国のために、何をしているのだろうか、とは、考えない。

 

権利のみを、主張するのは、日教組教育である。

更に、宗教を信じなくても、主義といものを、宗教と同じように、信じるという、アホ振りである。

 

共産主義は、ソ連でも、中国でも、成功しなかった、本当の共産主義は、あんなものではないとい、平然と言う者がいる。

共産主義黒書を、是非読んでもらいたいと思うが、読みきれる、能力も無いのである。

これを、終わっていると言う。

 

何もしない、出来ない者が、講釈ばかりを、覚えて、云々するのは、霊能者が、アンタの後に、お婆さんがついているというのと、同じほど、レベルが低いのである、ということにも、気付かない。

 

国家幻想とか、神話的とか、必要な、幻想があるが、それは、それを知ってのことである。

本当に、真実があると、信じてしまう者がいる。

 

この世に、真実など、ある訳が無い。

真実ではなく、事実があるのみである。

 

身体知、というもの、再考すべき、時である。

 

スポーツ選手の中に、時に、非常に思索的な、人がいる。

実は、スポーツ嫌いな私は、知っている。

身体知を、知る人は、事実を生きられるのである。

 

思想家の、脳と、スポーツをやる者の、脳の働きが、同じなのである。

 

それゆえ、日本では、道という言葉を、用いて、武道というのである。

ただし、それは、神遊ぶものである。

 

有名な、古武道の先生に、何度か、別な用事で、お逢いしているが、その方の指導は、天狗さんがしていて、自己顕示欲の強さが、武道の全面に出ているのを、見て、非常に、残念な思いをしたことがある。

勿論、私は、それを敬してはいるが、私とは、別の世界であった。

 

神遊ぶもの、とは、吉田松陰らが言うところの、神明というものである。

神、明るい、のである。

それは、アボリジニと、同じく、祖先からのものである。

 

祖先からのもの、それを、先祖崇敬という、形にしたのが、日本の伝統である。

先祖は、供養するべきものではない。

崇敬するものである。

 

伊勢神宮崇敬会、というものは、実に、正しい。

先祖は、崇敬にしか、対する方法は無い。

 

霊位は、崇敬するものである。

 

追悼慰霊とは、崇敬の所作である。

 

存在の無い神というものに、祈りを挙げても、それは、単なる、自己催眠である。勿論、自己催眠が、人生であるから、それも、一つの方法である。

 

その、自己催眠から、抜け出て、先祖崇敬する時、過去が現在であり、未来が、現在になる。

まさに、アボリジニの、先祖の夢、今、そこに、なのである。

 

この世に、断絶しているものは、何一つもない。