木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第13話

フィリピンの現状を書いても、その背景を知らなければ、より深い理解は得られない。

 

首都圏のマニラが、このようなのだから、それでは、他の島、地域はどうなのだろうかと、想像すると、想像すら、出来ないのであると、気づく。

 

政治と経済は、強く結びついている。

単純に俯瞰すれば、富が、一部の人にしか、渡らないシステムが、出来上がっているということであろう。そして、更に、悪いのは、それを解消出来ずに、今の今まで、続いてきたということだ。

 

旧体制から、引き継がれた一部の、富を占有する人々が、政治も握るということ。

政治家が、国民のための、政治家ではなく、自分の、利益のための、政治家であるといえる。

 

民主主義とはいうが、フィリピンには、それに似た政治選挙があるだけで、結果は、政治家自らのための、政治家が、大半を占めると、考える。

 

共産ゲリラや、イスラム反政府活動など、反政府運動は、当然であると、思えるのである。

 

イスラムは、キリスト教以前から、存在していた、ものであり、分離独立を目指しても、おかしくないと、思うに至った。

 

改めて、政治の役割というものが、実に大切なものであることを、知るのである。

 

それでは、少し、日本がフィリピンに、戦後行った、ことを見る。

 

1956年から、76年の20年間に渡り、日本は、1980億円という、他の賠償受入国の、インドネシア、ビルマ、南ベトナムなどと、比べても、最高額を供与した。

 

1979年に、はじまった、円借款に無償援助を加えた、日本のODAにおいても、インドネシア、中国、インドに継ぐ、第四位という位置である。

 

国民一人あたりの、援助額では、主要対象国のなかで、最高額を受け取っている。

 

1980年代からは、フィリピンにとっても、最大の援助国は、日本である。

 

援助額の、57,6パーセントを、占めているのである。

 

昨年から、少しばかり、報道されるようになったのが、ODAの、あり方である。

つまり、フィリピンをはじめとして、外国での、賄賂が不正な、支出として、認定されたのである。

 

フィリピンの場合は、1986年の、政変の中で、追放された、マルコス大統領が、アメリカに持ち出された、秘密文書によって、賠償や、ODAがもたらした、負の側面を、見せ付けることになった。

 

それは、インドネシア、ベトナムなどにも、言える。

結果的に見ると、国民のために、支援金が、使用されず、単に政治家と、その一部の者たちのために、使用されているという、事実が、見える。

 

民主的選挙を、行い、国民の選んだ政治家が、結局、汚職まみれだというとも、多々ある。

それは、歴史が証明する。

 

問題は、まだまだあるが、次の機会に、譲る。

 

私達が、三度目に変わった、一泊、1500ペソの、ホテルには、結局、七泊することになった。

 

広い部屋で、値段の割には、古いが、豪華である。

三階の、深夜は、ガードマンが寝泊りする、前の部屋。そして、十字架がかかる、神聖な場所の前である。

 

古いだけが、問題だと思っていたが、二日目の朝方、足元から、痒みが起こった。

そして、三日目から、それが、顕著になった。

痒みの箇所を見ると、虫刺されである。

蚊に刺されたような痕がある。

 

はて、蚊などは、見ない。

四日目に、解った。

 

ノミ、シラミである。

それは、ベッドだった。

一泊する程度ならば、解らないが、長期間泊まると、解る。

 

ベッドのマットレスが古く、ノミ、ダニ、シラミの、巣なのである。

その上に、シーツを敷いても、彼らが這い上がってくると、知った。

 

後の、三泊を続けるか、否か。

 

中々、納得した、ゲストハウスを見つけることが、出来なくて、結局、そこに、留まったが、後一日という日に、私は、すぐ近くに、同じ値段のホテルを、見つけた。そして、ホテルは、新しいのである。

 

次の時には、そのホテルに泊まることにすると、思ったが、実は、マニラのエルミタ地区にいるのが、限界に達してきたのだ。

 

目に入るものに、拒絶反応を示す、私の脳である。

見なければ、いいものを、見てしまうからである。

 

明日帰国するという、夜の食事に出た時は、パニックを起こすのではないかと、思える、心境になった。

 

レイテ島などの、慰霊に出掛けるならば、マニラに立ち寄らないことだと、思った。

二つの方法がある。

セブ島までの、直行便で行き、そこから、船に乗り、レイテ島に渡る。

マニラに着いても、国内線で、レイテ島に、行く、である。

 

ただし、ルソン島にも、多くの慰霊の地がある。

フィリピンとも、長い付き合いが始まる予感であった。

 

衣服を差し上げた人々から、何度も、次は、いつ来るのと、尋ねられた。

 

私の活動の主たるものは、追悼慰霊である。

衣服支援は、それに準ずるもの。

団体は、作らない。あくまで、個人活動である。

何トンもの、衣服を運べるものではない。ただ、持てるだけ、持つのみ。

 

手渡しが、基本である。

この行為が、もし、日本と、それぞれの国の人々の、小さな、関係を築くことが、出来ればと、願うのみ。

 

後は、野となれ、山となれ、なのである。