木村天山旅日記

  何故バリ島か
  
平成21年5月 

 

序 ボランティアに関する再考

ボランティアに関する再考

 

ボランティアとは、日本語で、奉仕活動、慈善活動、福祉活動と訳すことが出来る。

 

語源は、ラテン語の、ボランタスであり、その意味は、生きる意味意識である。

 

つまり、それを、行為することによって、生きる意味意識に目覚めるということになる。更に、相手方に対する、行為は、相手を生かすことにもなる。

 

ここで、少し、勘違いの多い人がいるので、その考え方を、訂正したいと、思う。

 

貧しい国に出掛けて、ボランティア活動をすると、よく、貧しいが、心は豊で、笑顔があり、こちらが、癒されたという人がいる。

また、元気を貰った、力を貰った。

更には、日本は、豊かだが、心の豊かさがないと、言った、変な日本評価までする。

 

上から、下への、奉仕活動や、物を渡す活動には、常に、傲慢という意識が、ついているのだが、それを、知らないようである。

 

また、例えば、インドのマザーテレサの、活動に、ボランティアの原点を見るという人もいる。

 

マザーテレサの活動は、ボランティアでは、決してない。

彼女は、はっきりと、神様のために、素晴らしいことをと、言う。

彼女は、神様に捧げて行われているのであり、相手は、誰でもいいし、また、相手の中に神の見るということである。

それは、聞こえはいいが、ボランティアではない。

目的が、別である。

 

主イエスの、伝導であり、更には、カトリックという、宗教の伝道でもある。

 

つまり、どこまでも、精神論で、語るのであり、それは、社会的、政治的なものには、ならない。

 

そして、彼女も、私は、目の前のあることを、するのであり、それには、関わらないと言った。

 

私は、いつも、私の行為によって、精神論を超えて、考えている。

もし、少しの政治的配慮があればとか、行政が、もっと、サービスを行えばなど、である。

 

その国の、あり方を、考える。

 

あくまでも、ボランティア行為は、行為する者に、帰着する。

される側は、与えられたことを、喜ぶが、ただ、それだけに、終わる場合もある。

 

一方的な、援助という行為は、実に、おかしいのである。

 

そこで、上記のような、こちらが、勇気と、希望を、貰ったとか、貧しいが、心が豊かな人々だったとか、勝手な思い込みの、自己満足に陥る。

 

笑顔があるというが、貧しいという、貧しさは、笑うしか方法が無いのである。

 

本当に、物が無いという、状態を、日本にいては、理解出来ないし、それを少しばかり体験しても、日本に戻れば、何も、変わらないのである。

 

生きる意味意識というものは、自分の生活や、生き方も、変容するということである。

 

マザーテレサは、変容しなかった。

ただ、その信仰を、育てただけである。

彼女の、信仰の証としての、行為であり、それは、すでに、世の中から、評価を受けて、やや、偽善的なほどの、行為になった。

 

多くの人に、影響を、与えたが、それは、彼女の行為ではなく、彼女の語りが多分に、影響を与えた。

それが、彼女の役目だった。

カトリックの信仰である。

 

動機は、どうであれ、やったことが、善いことならば、言うことはない。

それは、その通りであるが、マザーテレサを、真似ては、ボランティアの精神に、反する。

 

ボランティアは、実質的、報いを受けるものではなく、生きる意味意識の、充実であるから、すでに、信仰というものでの、活動は、報いを受けているのである。

 

人道的、利他的行為、思想信条に関わらず、ただ、行為することに意味がある。

そして、一番は、相手方に対する、態度である。

 

目線を同じくしての、行為でなければ、やらないのに、等しいのである。

つまり、出来るだけ、相手方の、視線に立っての、行為であるということだ。

 

人を理解するというのは、至難の業である。

それは、支援する、援助するということも、同じである。

至難の業である。

しかし、それを思っても、やらざるを得ないと、心に、命じられる時、奉仕活動というものの、心が、現れる。

 

こちらの、思想信条を、訴えることや、まして、信仰を、説くなどという行為は、傲慢不遜の何物でもない。

 

つまり、行為にのみに、徹するということである。

そこには、する以外の、何物も無い。

 

宗教関係が、奉仕活動をする、という根拠には、必ず、布教という、不純が伴う。

 

マザーテレサは、ヒンドゥー教徒は、よりよいヒンドゥー教徒に、イスラム教徒は、よりよいイスラム教徒に、仏教徒は、よりよい仏教徒にと、言ったが、しかし、彼女は、カトリックを背負っていたのである。

 

であるから、それは、詭弁であった。

当時の、法王ヨハネ・パウロ六世も、世界を飛ぶ法王として、他宗教との、和解と、理解を掲げていた。

それに、彼女も、準じるのである。

 

更に、平然として、世俗的な、ノーベル賞というものを、受け入れた。

すべての、報いを、この世で、受けた。

本来は、彼女の信仰から、天国にての、報いを望むはずだったが、彼女は、この世の、報いを受けたのである。

 

これで、彼女の信仰心の出何処も、怪しくなった。

主イエスの、言葉に従ったが、変質したのである。

 

何故、マザーテレサを、引き合いに出したかといえば、最も、ボランティアの、反対を、行為したからである。

 

宗教家たちの、ボランティア活動は、あくまでも、思想信条の、故であり、それは、ボランティアの思想信条とは、全く別物であるということを、言う。

 

勿論、行為自体に、何も文句は、つけない。

 

神の愛の、実践であるのは、詭弁である。

ボランティアは、自然発露の行為である。

 

だから、貧しい人は心が豊かでなどいう、偏狭な、物の見方は、しない。

 

矢張り、貧しい人は、心も、貧しくなる。

笑顔でいるしか、方法が無い。

 

一枚のシャツで、幸せだったというが、洗濯をする間、裸でいることは、幸せであるのか。

もう一枚あれば、洗濯の際に、裸でいなくてもよい。

ただし、どうしても、一枚に、拘るというならば、言うことも無い。

 

自己完結する、宗教的、あるいは、精神論的考え方は、為政者の、思う壺である。

最も、支配しやすいのである。

昔のように、明確な、国家意識がなかった時代ならば、それでもいいが、今や、それぞれの、国家意識が明確にある。

 

ボランティア行為は、為政者の、思う壺ではなく、為政者への、強烈な、メッセージ性も、持つべきなのである。

 

心情的ボランティア行為は、心の自殺行為でもある。

傷を舐めあうような、情緒的ボランティア行為には、危険がつきまとう。

更に、持続しない行為は、嘘である。

 

更に、ボランティア行為には、孤立無援という、意識がいつも、つきまとうものなのである。

柔軟な姿勢でいいが、行為には、強靭な心の姿勢が、必要なのである。

 

そして、思想信条を説くものではない。

 

ちなみに、私の場合は、ただ、大和心を、行為するものであり、それは、他国の人に、説くものではない。

日本人の一人として、在るということで、十分なのである。

 

そして、私の、意識を棄てられるが、日本人としての、誇りは、棄てられないのである。

 

それは、マザーテレサの、カトリックと同じではない。

信仰は、意識的なものであり、国民意識は、無意識なのである。

 

例えば、私が日本という国を、布教しても、宗教の布教とは、意を異にする。

全く、意味が違うのである。

 

信仰という、独善に、陥らないからである。

 

大和心については、もののあわれについて、で、多く語っているので、省略する。