第3話
雨上がりの中を車が走り、25分程で、クタ地区のホテルに到着する。
はじめての、ホテルだった。
その付近のホテルには、四箇所泊まっている。
二件隣のホテルも、ツアー専門のホテルだ。
顔馴染みの、従業員と、挨拶したり、立ち話をする程になった。
このホテルの、感激は、シャワーが、威勢良く出ることと、朝食のバイキングである。
私は、昼の分も、食べることにして、朝、たらふく食べていた。
実に、賎しい根性である。我ながら・・・
荷物を入れ、着替えて、早速、夕食に出た。
知っていた、店が、二軒潰れていたので、驚いた。
クタは、激戦地である。
ここまで、書いて、最初の夜、どこの店で、何を食べたのか、忘れた。
ただ、酒は、飲まなかった。
飲んだのは、一度だけ、それも、ビール小瓶を、コータと、二人で飲んだだけ。
後は、一切、口にしなかった。
旅先では、酒を飲まない。
飲めないのである。
更に、日本では、微熱続きだったのが、治った。
日本に戻ると、また、微熱が出る。
翌日は、サヌールのホテルの、予約をし、支援物資の、仕分けを行う。
三人で、バッグに、入れ直すのである。
サヌールビーチでの、支援と、海がめの島で、有名な、スラガン島での、支援、そして、クタのストリートチルドレンたちである。
今回、ぬいぐるみは、サヌールの子供達への、挨拶として、持参する。
サヌールの、ホテルは、ゲストハウスに近い、こじんまりとした、一泊、2500円のホテルである。
実は、2000円のはずだが、26ドルと、言われた。更に、三人で、一つの部屋なら、26ドルですよと言う。
しかし、二つの部屋が必要である。
そこで、コータに交渉させて、25ドルにした。
次に、車の手配である。
荷物が多いので、バンが必要だが、250000ルピアである。
つまり、2500円。
ホテルに尋ねても、同じ料金だった。
駄目だと思い、メータータクシーにすることにした。
前々回のエッセイで、私が、メーターを下ろさなかったタクシードライバーに、怒鳴り散らしたことを書いたが、それ以来、タクシーは、すべて、メーターを下ろすのである。
まさか、私の旅日記が、読まれていることはないと思いつつ、望外な料金を、吹っかけるタクシーには、遭わなくなった。
翌日、タクシーで、サヌールに向かったのが、午後二時である。
朝食を、たらふく食べているので、腹が空かない。
普段は、朝食など、ほんの少ししか食べない、食べられない、辻友子も、私と、競うように、食べていたから、面白い。
どうして、こんなに、食べられるのか、しら、である。
それは、バリ島だから。
当然である。
感受性の解放である。
今回は、慰霊の儀に、使用する、日本の国旗を、持参した。
伊勢神宮の、日の丸の旗である。
すでに、テラの会の、活動に掲載しているように、辻友子が、私の傍で、国旗を、掲げていた。
白地に赤丸である。
インドネシアの国旗も、白と赤の、国旗である。
バリ島では、オーストラリアの国旗が、目立つ。
店や、タクシーの中にも、貼ってある。
聞くと、オーストラリア人が、依頼してくるという。
それなら、今度は、私も、日の丸の、シールを作り、持参しようかと、思った。
日の丸は、実に、目立つ。
それを、掲げて道を歩くと、皆々、声を掛ける。
慰霊の儀には、三人共に、浴衣を着たので、更に、声が掛かった。
インドネシアの公立学校では、日本語の選択科目がある。
それは、日本の支援に、応じたものである。
毎年、約、990億円という、大金を、支援しているのである。
学生の、集団から、おはようございます、と声を掛けられた時には、驚いた。
サヌールのホテルに、チェックインして、はじめての、サヌールの大通りに出て、レストランに入った。
コータが、この辺の人は、日本語が出来ますねと、言うと、ええ、ややさん、がーー、と言う。
この、ややさん、とは、何なのか、誰なのかが、私たちの、疑問になった。
サヌールにも、日本人が住んでいると、タクシー運転手に聞いたので、その人のことかと、思ったが、それも違うようである。
ややさん、とは、何かと、尋ねるが、誰も、明確に答えない。
日本語を、学ぶ場所が、ややさん、なのかという、結論に達したが、それでも、謎である。
私たちは、道々、ややさん、と、声に出して、歩いた。
馬鹿みたいである。
一度、ホテルに戻り、夕方のビーチに出ることにした。
その時、子供達への、プレゼントとして、挨拶として、少しの、子供服と、ぬいぐるみを、持参した。
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