木村天山旅日記

  何故バリ島か
  
平成21年5月 

 

何故バリ島か追加 

サヌールから、戻った翌日の、昼前に、テロ慰霊碑の前で、追悼慰霊の儀を執り行った。

 

それも、はじめから、決めていたことである。

 

その場所は、クタ地区の、レギャン通りの、角である。

道が二股に分かれている場所にあった、ディスコだった。

 

その前に、車が止められ、爆発し、ディスコ客が、被害に遭った。

二百名以上が亡くなった。日本人は、新婚旅行に来ていた、二人である。

 

モニュメントには、名前が刻まれている。

 

そこで、私たち三人は、日拝し、清め祓いの祝詞を、上げて、追悼した。

御幣と、日の丸を、掲げた。

 

その途中で、続々と人が集ってきた。

イスラム教徒や、欧米人である。

オーストラリア人もいた。

 

あまり、長くその場を占領していられないと、思いつつ、祈った。

キリエレイソン、主よ哀れみたまえ。

アッラーと、三度、唱えた。

 

不思議だった。

どうして、私の口から、アッラーが、出たのかである。

キリエレイソンは、今までも、出たが、アッラーとは、思わなかった。

 

しかし、祈りの心は、何も変わらない。

 

辻友子が、日の丸を掲げていた。

日本人三人が、浴衣を着て、慰霊をしている。ただ、それだけである。

 

終わると、その場を、すぐに、立ち退いた。

それを見ていた、おじさんが、ありがとう、と言うのである。

道を、歩いていると、ありがとうと、日本語で、声を掛けられるが、おじさんの、ありがとうは、それとは、違った。

私たちの行為に、ありがとうと、言ったのだ。

 

昼近くの時間を、選んだのは、太陽である。

太陽が、昇る時に、慰霊をする。

つまり、浮遊する霊に、対処したのである。

 

もし、深夜行えば、万が一、霊的障害を受けることもあり得る。

霊的障害とは、説明するのに、難しい。

感受性である。

そのような、感受性を持つ人がいる。

 

霊の障りといわれるが、単に、霊的想念に、一時的に、影響される。それは、精神的動揺、不安定さなどである。

しかし、それが、強く出ると、活動できないことになることもある。

 

太陽が、出ていれば、それを、防ぐことが出来る。

太陽は、目に見える神であると、私は、認識している。

 

この宇宙に、超人的、人格的神というものは、存在しない。

存在するものは、霊である。

 

霊的存在のみが、正しい。

その、霊が、神や仏と、名乗るというならば、理解する。

 

もっと、詳しく言えば、この三次元の太陽は、次元を超えても、存在する。

つまり、多次元の太陽である。

三次元を超える太陽の存在を、霊的太陽と、仮定する。

 

その、霊的太陽により、霊的存在も、存在する。

 

太陽信仰を持った、古代人たちは、正しいと、私は、信じる。

太陽こそ、宇宙と、地球を生かすものである。

 

太陽系というのは、太陽を中心にした、惑星の系列である。

宇宙には、多くの太陽系があると、言われる。

 

だが、今、私が、生きている太陽系の、太陽は、今、目に見えている太陽である。

ゆえに、私は、太陽を神として、拝する。

 

日本の伝統は、天照、アマテラスとして、太陽を拝してきたのである。

 

それを、実在の人物と、混合させたものである。

つまり、太陽信仰を、説いた人物と、重ね合わせて、そのように、お呼びした。

 

日拝するとは、昔の日本人ならば、誰もが、行っていた。

実に自然な、礼拝の仕方である。

 

更に、これは、伝統であり、宗教的行為ではないということである。

実に、宗教的に、認識されるが、伝えられた、行為である。

 

さて、私たちは、レギャン通りの、レストランで、ジュースを飲んだ。

ぼったくりと、言えるほど高い、値段だった。

だが、それが普通の、観光客を相手にする、店である。

 

従業員が、私たちに、親しげに、声を掛けてくる。

日本人は、上客である。

 

浴衣姿の私たちと、写真を撮るのである。

 

それは、それでいいが、二度と、その店に行くことはなかった。

ジュースの値段が、通常の五倍だとしたら、他の料理も、同じである。

少し、小道に入れば、そんな値段の店は無い。

 

ちなみに、ジュースは、その店では、25000ルピアである。

地元の、店なら、5000ルピア、50円である。

250円の、ジュースは、高い。それなら、日本と変わらない。

だが、観光客には、安いのである。

 

観光は、お金を使うための、旅である。

 

今回は、大方、辻友子が、払った。その訳は、書いたとおり。

一時的に、金持ちになった、気分になるのである。

更に、海外の旅をしていると、日本語が、変になる。

 

聞きなれない、言葉を聞いていると、日本語に影響してくるのである。

 

辻友子は、テロの慰霊碑の追悼を、明日の朝の早朝にも、したいと言った。

早朝は、朝である。

更に、夜の食事の時は、コータに、自分の皿の、ライスを、コータ君よかったら、この、ライスの白いご飯、食べないと尋ねた。

 

ライスは、ご飯である。

その他、色々ある。

 

危険が危ないという、言い方である。

 

英語と、インドネシア語を、使用すると、更に、こんがらかる。

モーニング、シラマッパギ、おはよう、と、朝の挨拶である。

えーと、何だったっけ・・・

うーんと、

ハーイとなる。

 

面倒になると、ハーイで、済ます。

ハイではない、ハーイである。

 

おしまい