木村天山旅日記 

  モンテンルパ

  平成21年9月 

 

第1話

はじめに

マニラから、南に車で、一時間ほどのところに、モンテンルパという街がある。

そのモンテンルパには、フィリピン最大の、刑務所がある。

 

私は、戦後の、東京裁判で、B級、C級戦犯となった、兵士たちが、収容されていた、その、モンテンルパの、収容所と、そこで、思わぬ罪を着せられて、処刑された皆様の、追悼慰霊に出掛けた。

 

勿論、処刑された方々だけではない。その地で、命を落とした、兵士の皆様の追悼慰霊も、執り行った。

 

東京裁判にて、戦犯とされた、兵士たちは、日本の法律では、無い。

アメリカの指揮する、戦勝国が、敗戦国を裁くという、実に、茶番な裁判によって、決められたものである。

 

日本の法律に、戦犯という、罪状は無い。

 

当時の国民も、そのように、考えていた。

それの、一つの例が、モンテンルパである。

 

実は、このモンテンルパにて、収容されていた兵士が、作詞したものに、最初で最後の、作曲をした、伊藤正康さんが、86歳で、今年の六月に、鎌倉の自宅で、亡くなった。

 

彼も、そこで、死刑の判決を受けていた。

その死刑の日を、待つ間に、曲を作ったのである。

しかし、彼は、処刑されることなく、帰還できた。

それが、この歌、ああモンテンルパの夜は更けて、である。

 

彼の、仲間は、無実を訴えても、処刑された。

 

モンテンルパの夜は更けて

募る思いにやるせない

遠い故郷偲びつつ

涙に曇る月影に

やさしい母の夢を見る

 

昭和27年、1952年、四月に占領が終わると、各地の戦争裁判の結果、戦犯とされ、服役していた人たちの、早期釈放を求める、国民運動が起こった。

 

戦地や、収容所の慰問を続けていた、歌手の、渡辺はま子が、ああモンテンルパの夜は更けて、を、歌った。

それによって、フィリピンのモンテンルパに、収容されている、兵士たちの、存在が、国民に知られることになる。

 

監獄に収容されていた、死刑囚が作詞した歌詞に、国民は、泣いた。

 

つばめはまたも来たけれど

恋し我が子はいつ帰る

母の心は一筋に

南の空に飛んでゆく

定めは悲し呼子鳥

 

彼らの、減刑を求める、五百万人の署名が、集まるのである。

 

翌年、28年7月4日、フィリピン独立記念日にあわせて、元日本兵の、全員釈放が、決まった。更に、減刑されて、巣鴨プリンズに送還されたのである。

 

その年の、7月22日、モンテンルパ監獄から、釈放されて、故郷日本の、地を踏んだのは、百八名の、元日本兵である。

それを、横浜港で、出迎えたのは、二万八千人という。

 

誰もが、帰還を喜んだのである。

縁も、ゆかりも無い人たちも、彼らの帰還を、喜んだ。

 

モンテンルパに朝がくりゃ

昇る心の太陽を

胸に抱いて今日もまた

強く生きよう倒れまい

日本の土を踏むまでは

 

しかし、作詞した者は、処刑された。

 

今、戦争を、どうのこうのとの、話ではない。

少なくとも、国のために、戦うという、不可抗力の中で、亡くなった皆様は、その国が、追悼慰霊を篤くするものである。

 

私は、追悼慰霊の所作なくして、平和運動は、また、無いと、言うものである。

 

戦争の犯人は、誰かと、左翼、左派の夢見る人々は、犯人探しをする。

しかし、それでは、戦争は、終わらない。

戦争に至るまでの道は、実に、複雑である。

 

戦争関係の、秘密文書が、どんどんと、公開されている。

 

東条英機が、天皇に、涙ながらに、戦争をしなければ、日本は、立ち行かないと、迫った。

そして、昭和天皇は、私が、戦争に反対すれば、暗殺されるとも、知っていた。

 

しかし、国民に、天皇が無くなれば、どんなことになるのかも、天皇は、知っていた。

天皇無くして、日本という国は無いのである。

それが、2600年の伝統日本の、面目である。

 

今年は、建国2669年である。

 

敗戦の際も、昭和天皇は、退位せず、国民を救わなければならないとの、使命を持つ。そして、それが、できるのも、天皇だからである。

 

天皇とは、そのような存在であることを、天皇自身、知っていた。

 

昭和天皇は、国民を救わんがために、心を砕き遊ばされたと、言う。

 

史観というものに、囚われると、天皇の姿が、見えなくなる。

 

どんなに、納得した、論文にても、私が、納得しない部分は、宗教的行為による、慰霊は、どこの国もあり、それを、行うこと、日本も当然である。無宗教施設による、慰霊は、無いという。

 

しかし、私は言う。

 

日本は、宗教の国ではない。

伝統の国である。

 

死者を、奉る行為も、伝統である。

 

その、伝統を、宗教的と、置き換えてもいいのだが、私は、あえて言う。

伝統の死者に対する、所作を有するのが、日本である。それは、他の、どの国にも無い、伝統であると。

 

私の、追悼慰霊の行為が、どうしても、宗教、あるいは、宗教的と言われる。つまり、そのカテゴリーにしか、頭が回らないのである。つまり、アホである。

 

私が、御幣を、作り、言霊の、清め祓いをするのは、伝統である。

 

更に、言わせてもらえば、日本には、宗教という、概念も、観念も無い。皆無である。

 

そんな国は、日本以外に無い。

天皇を、上とし、民を、下として、この国は、伝統により、成り立ってきたのである。

 

かけまくも かしこき

とは、自然に対する、言挙げである。

更に、太陽を、天照と、お呼びする、太陽崇敬と、祖先崇敬の伝統の国なのである。

 

それは、この国が、島国ゆえに、出来上がった、独特の、伝統である。

 

更に言えば、死者、祖先は、我々と共に、在るという、心象風景を持つ伝統である。

 

明治期に、西洋から入ってきた、宗教学なるものは、キリスト教国のものであり、日本には、そのような、詭弁は、無い。

 

言霊が、音霊、おとたま、に、支えられてあり、音霊は、数霊、かずたま、に支えられてあることを知る民族である。

それを、伝統と、言う。

万葉集を読めば、解ることである。