木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第二話

 

長旅では、決して無理な予定は立てない。

必ず、一日を置き、間を置いて行動することにしている。

前回のタイでは、野菜サラダを食べて、当たり、一日寝ていることになった経験がある。それは、消耗が激しく、辛いものだった。吐き気が止まり、下痢だけになったので、病院に行くことはなかったが、24時間、動くことが出来なかった。

 

ミャンマーに入る前日は、一日、のんびりと過ごすことにした。

と言っても、ホテルを変更しなければならない。

 

朝、ホテルの豪華な朝食バイキングを食べて、休み、チェックアウトの12時まで、ホテルにいた。

 

ホテル探しの前に、昨日の旅行会社に向かった。そこで、紹介されるホテルなら、良いホテルを紹介されると思った。

 

行くと、私たちを待っていたかのように、昨日のオーナーがいた。

あらら、と思った。社員で、良いのに・・・

 

ホテルの紹介を言うと、オーナーが、一番良いホテルを紹介した。

通常の日本のホテル並みの料金である。

違う、違う、もっと、安いホテルだと言うと、次のレベルに落とすが、まだ、駄目だ。私の和服のせいで、お金があると、勘違いしている。

「もっともっと、安いホテルでいいの」私が言った。日本語で。通じた。

 

コテージ風のホテル、実に、その会社の向かいの、ゴールデントライアングルインという、一泊800バーツ、二泊で、1600バーツのホテルに決めた。二泊で、約5200円ほどである。朝食付き。

実は、私は、一泊600バーツほどのホテルを望んでいた。約2000円である。

しかし、妥協した。

 

オーナーが、私たちを連れて、ホテルに向かった。

二階建てのコテージである。私たちの部屋は、二階の角部屋である。道路に面していて、目の前に、ソニーの看板が見える部屋である。

十分だった。

オーナーは、また私に、オマンコと言った。笑って、済ませた。

 

その日は、タイマッサージの予定である。

一時間200バーツ、約660円のマッサージである。それが、また、凄かった。

アカ族の女マッサージ師である。うまい。マッサージというより、指圧に近い。

日本の一割の料金で、十分なマッサージを受けられる。これが、タイの魅力でもある。

 

野中は、少しタイ語が出来るので、アカ族の女と親しくなり、色々と、彼女の境遇を聞いた。未婚の子持ちである。息子は、ミャンマーの孤児の施設にいるという。

ミャンマーのアカ族には、古代の乱交の風習があり、誰の子か解らないらしい。

いずれ、息子には、英語を学ばせたいと言う。日本円にして、一月3000円ほどの資金があれば、それが出来るが、その3000円を得ることが出来ないのだ。

 

その日の、朝食は、ホテルで取ったが、昼食が思い出せない。手帳見ると、夜に和食とあるが、その和食の内容も、思い出せない。矢張り、細かに書いておかなければ、忘れる。

 

実は、日本から出る前に、私は、鼻風邪を引いていた。それも、強烈なものである。親切に、子供の鼻をかんであげて、その紙で、自分の鼻をかんで、移ったものである。免疫がなく、治りが悪いので、抗生物質を飲んでいた。

引き続き、風邪薬と、抗生物質を飲み続けていた。

 

夜の食事をして、野中と別れて、私は、ぶらぶらと、小路を歩いた。

小路の端の、オープンな中華料理の店で、緑茶を頼んだ。

禁煙ではないが、灰皿が無い。

オープンだが、店先のイスに座り、タバコに火を点けた。

灰は、ブリキの缶に入れるらしい。いちいち、立ち上がって、その缶に捨てる。

禁煙運動家には、実に、気分の良い、対処である。

タバコを吸うのが、面倒になるのである。

 

少しして、私は、ホテルに戻る道を歩く。

その辺りは、マッサージの店が多い。妖しい店もある。

わざわざ、レディーマッサージとある。何となく、理解できる。

そこを通ると、マッサージマッサージと、声がかかる。

 

その時の私は、タイパンツと、Tシャツなので、それほど、強引な誘いはなかった。

ただ、可愛らしい女の子が、じっと、こちらを見ているのに、心が弾かれた。その顔には、悲しみがある。悲哀といってもいい。

抗えない運命の中に身を置くという、風情である。

生きるため。

生きるためにと、考えて、生きるということを、知らない、日本の若者には、理解出来ない風情である。

食うために、男の性の処理を行う。

 

チェンマイに行くと、チェンライから来たという者が多い。そのチェンライで、更に、田舎から出てきて、働く。

少数部族の女が多い。

マッサージも然り、体で稼ぐしかない。

うまくいけば、レストランのボーイ、ウエイトレス。ホテルの下働きである。

その給与は、一月、3000バーツ程度。約、一万円である。

しかし、生活が出来ない。それと同じ分を、チップに頼るという。

それで、約二万円。

 

しかし、私は、哀れむことはしない。する必要も無い。

それが、現実である。

私も、日本にて、現実を生きる。

観光旅行なら、私は、来ることも無い。また、そんな余裕は無い。

慰霊と、ボランティアをするための、支援を受けて、旅をしている。

私も、哀れまれる存在である。

 

悲しい顔をした彼女は、私を悲しい顔をした、男だと、見ていたはずである。

 

例えば、私が彼女の一時間を買ったとして、私は、彼女に解消して貰う、欲望は無い。

 

私のマッサージをして貰う歴史は、長い。マッサージを受けるプロである。つまり、余程の力量のある者でなければ、私を満足させられない。オイルマッサージを、何度かしたが、あんなものは、子供だましである。

逆に、後味が悪くて、凝りが出て、具合が悪くなる。

凝りを取り除くという技は、並大抵ではない。

 

変な整体に、痛みのないソフト整体などという者がいる。あれは、逃げである。凝りを取り除こうとすれば、当然、痛みがある。生殺しのような、整体マッサージを受けて、何度も、具合が悪くなった。二度と、受けない。

どんなマッサージ師、整体師より、私の方が巧い。何せ、マッサージを受け続けて、30年以上のキャリアである。

理屈ではない。

 

ちなみに、死んだ人間には、凝りというものが無い。

生きている人間にだけ、凝りというものがある。

生きている証拠が、凝りである。

 

凝りには、その人の、全人生が表現される。

一時的にでも、凝りを取り除くということは、その人を、一時時に、人生から、解放するということである。

その意識無い者が、マッサージなど、出来るはずもない。

 

更に言う。

 

性処理のマッサージも、二度としたくないというものが、本当である。

性とは、繰り返しである。

繰り返しから、逃れられない。つまり、性とは、排泄の快感である。糞、小便と同じである。それが、崇高な生殖に繋がると考えるのは、愚かである。

 

妊娠から、出産に至り、そこから子育てが始まる。そこに、崇高な行為がある。

性行為が、崇高ではない。

子供が出来てからが、本当である。

だから、生み逃げする男などは、最低最悪である。

 

性処理マッサージは、商売として、堂々としたものである。

毎日、食堂で、食べるように、性処理マッサージで、処理をする。それでいい。それで、生計を立てる者がいる。

経済行為である。

 

日本も、戦後、女の股で、ドルを稼いだ。

韓国でも、女の股で、外貨を稼いだ。中国もであり、その他、多々ある。

政府は、女に感謝して、余りある。

女の股が、国の経済を立てる。

正統な売春に、異議申し立て出来る者はいない。

正統な売春とは、児童買春以外である。男も、体を売って稼ぐといい。売れればである。