ミャンマー国境の町、メーサイへ向かう。
ホテルを朝、10時に出発する。
乗用車には、運転手と、オーナーがガイド役で、同乗。
この、オーナーが、兎に角話しがしたいようで、英語でまくし立てる。それも、よしと、タイ、最北の町に向かう。
運転手は、19歳の、まだ少年の面影のある子。英語ができないゆえに、話ができない。
運転が上手で、思った以上に早く、メーサイに到着した。約一時間である。
町に入ると、俄かに活気がある。
そして、国境の前の広場は、人の波である。
二時間の約束で、オーナーと別れる。
二時間あれば、川で、慰霊が出来ると考えた。
また、子供服も、携えていた。
まず、タイ側で出国をし、橋を渡って、ミャンマーに入る。
10ドルを支払い、出国審査を受ける。
パスポートを預けて、預り書を貰う。
ミャンマーは、タチレクのみに入るので、スムーズである。
ただ、半日程度の観光客が多いので、並んでいる。
皆、欧米人である。日本人の姿は、見なかった。
ようやく通されて、橋を渡り、タチレクの入国審査である。
問題なく、スムーズに進む。
橋の上でも、商売が行われていた。
驚いたのは、海からのカニを売っていたことだ。タイ人なのか、ミャンマー人なのか、解らない。
野中が、タイ語で話すので、タイ語も通用するようである。
タチレクに入ると、すぐに、トゥクトゥクの誘いである。
バイクに、荷台を取り付けて、二人の客を乗せられる。
一人100バーツで、市内観光が出来る。
おじさんは、タチレクの名所の写真を見せて、すべて回ると、言う。言葉は、解らないが、そう言っていると、解る。
私は、町を見下ろせる、寺、パゴダを指した。
そこを見てから、川沿いに行こうと、思った。
町一番の寺には、人がまばらである。
小学生ほどの年齢の少年僧の姿が、目に付く。
まず、寺の本堂に入り、黙祷する。
横で、地元の人が、礼拝していた。
着物姿からか、別の観光客をつれて着ていた、男が、私に説明するから、おかしかった。
片言の英語で、よく解った。
片言の英語しかできない私には、片言の英語が、通じるのである。
仏像の話をするのは、難しい。
日本の仏像のイメージではない。仏像に対する認識が違うのである。
これは、後で、タイの仏教を語る時にも、書くことにする。
ただ、あちらの仏像には、霊的波動が強いということだ。
それは、人霊の憑依現象である。
あちらの人は、寺、仏像即、仏の世界である。
当然、死後、寺に集う霊もいる。
寺を終わり、その上の塔へ向かう。
そこからの眺めが、素晴らしい。八方を眺めることが出来る。
実に、親切な女が、礼拝の仕方を教えてくれた。
塔の周りに、七体の仏像があり、生まれた曜日による、仏様である。
花と、鳥籠を買う。鳥籠には、すずめが入っている。
仏像の前での礼拝の仕方を教えられて、仏像に手を合わせ、水を掛ける。
その時、私が、よく解らないので、後ろから、日本語で、三回、二回、一回と、教えるものがいる。振り向くと、少女である。
女は母親で、少女は、その子であった。
水を掛けて、すべてが終わると、すずめを放つのである。
それで、完了。
すると、少女が、チャイナブッダ、タイブッダ、ビルマブッダと、指差した。
その場所に向かう。
四体の仏像がある。
皆、造りが違う。
何となく、中国の仏像、タイの仏像、ビルマの仏像が解る。
そして、少し離れてある仏陀の像は、インドの姿だろうか。
ここでは、仏陀が、普遍的存在の、ブッダとしてある。
ブッダは、仏の総称であり、実在の仏陀を言うのではない。
タイも、ビルマも、小乗仏教が伝わった。
これについても、後述する。
一応の礼拝が終わる。と、途端に、親子が、袋から、何かを取り出した。
物売りだった。
次から次と、売る物が出てくる。
私は、少女の20枚で100バーツの絵葉書を買った。
しかし、これはどうだ、これはどうだと、出てくる。
一々断るのが面倒なので、立ち上がった。
タイ語で、コークプンカップと、お礼を言う。
これ以上、押し売りされると、折角の気分が悪くなると、出口に向かった。
野中も、そくそくと、戻ってきた。
客が少なく、私たちに、バー イと、言う。
その時、少年僧三人が、道とは別の場所から、現れた。
私は、すぐに小銭を探して、彼らに供養した。
丁度、野中がいて、写真を撮る。
トゥクトゥクに乗り込んで、道を戻る。
少し、名残惜しい気がした。物売りが無ければ、もう少し、時間を持って、暫く、周囲を見渡していたいと思った。
タチレクは、小さな町である。その町に、人種の坩堝があった。
ミャンマー人といっても、多くの少数部族がある。
そして、インド系の人。タイ人もである。中国人も、勿論いる。
それらが、ミャンマー人や、タイ人として、括られる。
トゥクトゥクのおじさんは、どういうつもりか、街中を走る。何も言っていない。
屋台のもの売りの市場に出た。
一斉に、物売りが寄って来る。
ゴーゴーと、おじさんを促す。
おじさんが、何を考えているのか解らないが、教会、キリスト教会に連れてゆく。プロテスタントのバプテスト教会と、カトリック教会である。
写真にある、観光名所を示さなかったので、おじさんが、気を回しているようだった。
そこで、私は、おじさんを止めて、川沿いに行くことを言う。しかし、言葉が通じない。
野中が、英語、タイ語で言うが、駄目。
何としても、通じない。
頷くが、また、別の場所に行く。
教会の前に戻る。
その時、一人の黒人が現れた。
宣教師であろうと、思った。
私たちの話を聞いて、通訳に出てくれた。
もう、二時間に迫り、いまから、川沿いに行っても、無理だろうと思い、元の場所に戻ることを、伝えてもらう。漸く通じて、発進した。
元の場所に戻り、私は、慰霊が出来ないことと、子供服を、少数部族の人に渡せないことが、残念だった。
残り時間は、15分程である。その時、トイレに行きたくなった。が、見当たらない。しかたなく、下町の中に入る。トイレを借りようと思った。
そこが、下町の、囲いのある場所だとは、後で知る。
老人に、トレイを借りたいと、野中が、タイ語で言うと、通じた。
一件の家を示された。そこに、女の子と、男の子、そして、二人の幼児が寝ていた。
トイレを借りて出た。
そこで、子供服を上げたらと、野中が言う。
打って付けだった。早速、取り出して、女の子と、男の子に合うものを、探す。そして、寝ている幼児の服も、多くあった。大半が、ぴったりである。そして、まだ残るものを、先ほどの老人に託した。
老人が、その地区の警護役だと、写真で知ることになる。
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