木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第三話

 

ミャンマー国境の町、メーサイへ向かう。

ホテルを朝、10時に出発する。

乗用車には、運転手と、オーナーがガイド役で、同乗。

この、オーナーが、兎に角話しがしたいようで、英語でまくし立てる。それも、よしと、タイ、最北の町に向かう。

 

運転手は、19歳の、まだ少年の面影のある子。英語ができないゆえに、話ができない。

運転が上手で、思った以上に早く、メーサイに到着した。約一時間である。

 

町に入ると、俄かに活気がある。

そして、国境の前の広場は、人の波である。

 

二時間の約束で、オーナーと別れる。

二時間あれば、川で、慰霊が出来ると考えた。

また、子供服も、携えていた。

 

まず、タイ側で出国をし、橋を渡って、ミャンマーに入る。

10ドルを支払い、出国審査を受ける。

パスポートを預けて、預り書を貰う。

ミャンマーは、タチレクのみに入るので、スムーズである。

ただ、半日程度の観光客が多いので、並んでいる。

皆、欧米人である。日本人の姿は、見なかった。

 

ようやく通されて、橋を渡り、タチレクの入国審査である。

問題なく、スムーズに進む。

 

橋の上でも、商売が行われていた。

驚いたのは、海からのカニを売っていたことだ。タイ人なのか、ミャンマー人なのか、解らない。

野中が、タイ語で話すので、タイ語も通用するようである。

 

タチレクに入ると、すぐに、トゥクトゥクの誘いである。

バイクに、荷台を取り付けて、二人の客を乗せられる。

一人100バーツで、市内観光が出来る。

おじさんは、タチレクの名所の写真を見せて、すべて回ると、言う。言葉は、解らないが、そう言っていると、解る。

私は、町を見下ろせる、寺、パゴダを指した。

そこを見てから、川沿いに行こうと、思った。

 

町一番の寺には、人がまばらである。

小学生ほどの年齢の少年僧の姿が、目に付く。

 

まず、寺の本堂に入り、黙祷する。

横で、地元の人が、礼拝していた。

着物姿からか、別の観光客をつれて着ていた、男が、私に説明するから、おかしかった。

片言の英語で、よく解った。

片言の英語しかできない私には、片言の英語が、通じるのである。

 

仏像の話をするのは、難しい。

日本の仏像のイメージではない。仏像に対する認識が違うのである。

これは、後で、タイの仏教を語る時にも、書くことにする。

 

ただ、あちらの仏像には、霊的波動が強いということだ。

それは、人霊の憑依現象である。

あちらの人は、寺、仏像即、仏の世界である。

当然、死後、寺に集う霊もいる。

 

寺を終わり、その上の塔へ向かう。

そこからの眺めが、素晴らしい。八方を眺めることが出来る。

 

実に、親切な女が、礼拝の仕方を教えてくれた。

塔の周りに、七体の仏像があり、生まれた曜日による、仏様である。

花と、鳥籠を買う。鳥籠には、すずめが入っている。

 

仏像の前での礼拝の仕方を教えられて、仏像に手を合わせ、水を掛ける。

その時、私が、よく解らないので、後ろから、日本語で、三回、二回、一回と、教えるものがいる。振り向くと、少女である。

女は母親で、少女は、その子であった。

 

水を掛けて、すべてが終わると、すずめを放つのである。

それで、完了。

すると、少女が、チャイナブッダ、タイブッダ、ビルマブッダと、指差した。

その場所に向かう。

 

四体の仏像がある。

皆、造りが違う。

何となく、中国の仏像、タイの仏像、ビルマの仏像が解る。

そして、少し離れてある仏陀の像は、インドの姿だろうか。

 

ここでは、仏陀が、普遍的存在の、ブッダとしてある。

ブッダは、仏の総称であり、実在の仏陀を言うのではない。

タイも、ビルマも、小乗仏教が伝わった。

これについても、後述する。

 

一応の礼拝が終わる。と、途端に、親子が、袋から、何かを取り出した。

物売りだった。

次から次と、売る物が出てくる。

私は、少女の20枚で100バーツの絵葉書を買った。

しかし、これはどうだ、これはどうだと、出てくる。

一々断るのが面倒なので、立ち上がった。

タイ語で、コークプンカップと、お礼を言う。

 

これ以上、押し売りされると、折角の気分が悪くなると、出口に向かった。

野中も、そくそくと、戻ってきた。

 

客が少なく、私たちに、バーイと、言う。

その時、少年僧三人が、道とは別の場所から、現れた。

私は、すぐに小銭を探して、彼らに供養した。

丁度、野中がいて、写真を撮る。

 

トゥクトゥクに乗り込んで、道を戻る。

少し、名残惜しい気がした。物売りが無ければ、もう少し、時間を持って、暫く、周囲を見渡していたいと思った。

タチレクは、小さな町である。その町に、人種の坩堝があった。

ミャンマー人といっても、多くの少数部族がある。

そして、インド系の人。タイ人もである。中国人も、勿論いる。

それらが、ミャンマー人や、タイ人として、括られる。

 

トゥクトゥクのおじさんは、どういうつもりか、街中を走る。何も言っていない。

屋台のもの売りの市場に出た。

一斉に、物売りが寄って来る。

ゴーゴーと、おじさんを促す。

 

おじさんが、何を考えているのか解らないが、教会、キリスト教会に連れてゆく。プロテスタントのバプテスト教会と、カトリック教会である。

写真にある、観光名所を示さなかったので、おじさんが、気を回しているようだった。

そこで、私は、おじさんを止めて、川沿いに行くことを言う。しかし、言葉が通じない。

野中が、英語、タイ語で言うが、駄目。

何としても、通じない。

頷くが、また、別の場所に行く。

 

教会の前に戻る。

その時、一人の黒人が現れた。

宣教師であろうと、思った。

私たちの話を聞いて、通訳に出てくれた。

もう、二時間に迫り、いまから、川沿いに行っても、無理だろうと思い、元の場所に戻ることを、伝えてもらう。漸く通じて、発進した。

 

元の場所に戻り、私は、慰霊が出来ないことと、子供服を、少数部族の人に渡せないことが、残念だった。

残り時間は、15分程である。その時、トイレに行きたくなった。が、見当たらない。しかたなく、下町の中に入る。トイレを借りようと思った。

そこが、下町の、囲いのある場所だとは、後で知る。

 

老人に、トレイを借りたいと、野中が、タイ語で言うと、通じた。

一件の家を示された。そこに、女の子と、男の子、そして、二人の幼児が寝ていた。

トイレを借りて出た。

そこで、子供服を上げたらと、野中が言う。

打って付けだった。早速、取り出して、女の子と、男の子に合うものを、探す。そして、寝ている幼児の服も、多くあった。大半が、ぴったりである。そして、まだ残るものを、先ほどの老人に託した。

老人が、その地区の警護役だと、写真で知ることになる。