10日の朝、コンサート開催の朝である。
私は、七時に、最初に泊まったホテルに向かった。
一階のテラスで、食事をするためである。
知った顔のボーイが出てきた。
まだ、私が、このホテルに泊まっていると思っている。
最初に、コーヒーを頼んだ。
そして、歌の歌詞を反芻していた。
プログラムを一応作った。ただし、お客様には、配布しない。
その時の雰囲気で、変えられるようにだ。
会場には、夕方の五時半に着く予定である。
歩いて行かれる場所だから、気が楽である。
コーヒーを飲み、タバコをふかして、暫くしていた。
そして、朝のサンドイッチを頼む。
ふっと、レストランの中を覗くと、白人が朝食を食べている。
兎に角、量が多い。
朝から、あれだけの物を食べるのであるから、大きいのかと、思う。
しかし、あれを食べてみたいと思うのだ。人の食べている物を食べたいと思うのは、性格だろうか。
だが、思い直して、矢張り、サンドイッチにする。
いつもと、同じものである。
本日のコンサートで、今回の旅の最終目的を終える。
何とも、過ぎてしまえば、早いものである。
明後日、帰国するのだ。
黙っていても、時間が過ぎる。
時間を哲学すると、ノーベル賞ものだと、聞いたことがある。
それ程、時間というものは、捉えにくい。
流れると、捉えただけでいいのか。
そして、本当に時間は、流れているのか。
流れていると感じるのは、こちら側である。時間の方は、流れるとは、感じない。時間に、意識は無いのである。
また、人間の時間と、象や鼠の時間も違うだろう。
鼠は、早く死ぬ。象は、長生きである。
だが、鼠も象も、生きている間の心拍数は、同じだという。
兎に角、時間を、掘り下げて考えてみたいと思うが、本当は、そんな暇は無い。
地球が太陽を一回りすると、私は、一つ年を取るという、現実を、時間の流れと考えていいものだろうか。いやいや、この辺で、止めておく。
ホテルに戻り、体をベッドに預ける。
コンサートの前に、フットマッサージをする予定である。
昨日の、マッサージ屋である。約束したことでもあり、まだ、今回はフットマッサージを受けていないから、楽しみである。
その前に、昼食である。
さて、何を食べようか。
野中が、安いタイの食堂を教えると言う。
そこに、行くことにした。
暫く、ベッドで休む。
昼食まで、休むことにした。
私は、旅をしている間、本を読まない。
ところが、今回は、少し本を読んでいた。タイの歴史である。
それも、太平洋戦争前から、戦後を中心にしたものである。
タイと日本との関係について、知りたいと思ったからだ。
日本は、アジアの国の中で、最もタイとの付き合いが深い。
タイの近隣の国は、戦前は、皆、植民地だった。タイのみ例外である。
結果論から言えば、日本が興した戦争が、それらの国に、独立を促したと言える。
例えば、ミャンマーも、独立を果たしたのは、アウンサン将軍が、日本軍から教えを受けてのこと。
ただし、ミャンマーは、その後、二度のクーデターにより、軍事政権を樹立している。
大変残念なことである。
独立の最初の将軍の娘が、現在、民主化を進める、アウンサン・スーチーさんである。
タイと言う国は、色々な軋轢を、うまくかわしている。
特に、太平洋戦争後が、顕著である。
絶対王政だったタイが、1932年6月24日の、人民党によるクーデターで、立憲君主制と移行する。
暫く、王室の存在が、稀薄化する。
それが、再び、脚光を浴びるのは、共産主義に対抗して、国民統合を推進する時代が到来してからだ。
人民党政府も、暫く不安定な状態で、紆余曲折を経た後で、首相の地位に就いた、ピブーンの時代になり、1939年6月に、国家信条を公布した。
それにより、国名が、シャムから、タイに変更した。
タイとは、英語で、タイランドと書く。つまり、タイ人の土地という意味である。それは、また、タイ人の国という意味になる。
タイと日本が、友好国、兄弟国となったのは、1933年の満州国問題に関する、国際連盟の対日非難決議である。タイは、棄権票を投じたことと、その後のクーデターで、ピブーンに頼られたことからである。
そして、日本は、タイと友好関係を深める条約の締結を希望した。
だが、タイが、英仏と、不可侵条約を結ぶことで、日本も、同じく1940年に、不可侵条約を結ぶのである。
太平洋戦争開戦の最初に、日本軍はタイ軍と、戦闘を行っている。
ピブーンは、中立的立場を取ろうとするが、結果的に、日本軍がタイを通過する通過協定を結ぶが、更に、軍事協定を結び、遂には、ビルマ進軍を、タイ側と行うために、同盟条約を締結した。
その後、タイは、連合国側のバンコク空襲を非難する意味で、1942年1月に、米英に宣戦布告することになった。
タイは、日本と共に、戦争を始めたが、それは、タイの領土拡大を目指したものだ。しかし、現在でも、この戦争は、日本により、無理に始めたものであり、タイも、日本に占領されたと、考える歴史の見方もある。
終戦の際に、タイが、特別に有利に事を進められたのは、宣戦布告の署名であった。
スイスにいる国王の変わりに、三人の摂政が署名するはずが、そのうちの一人が、雲隠れして、二人のみの書名になった。
ゆえに、タイは、署名は、無効であるとしたのだ。
また、英米に留学していたタイ人らが、日本に協力することを拒み、自由タイ思想を掲げて、帰国せずに、働きかけたことから、敗戦国という、最悪の事態から逃れられた。
勿論、痛みは、伴った。アメリカは、良かったが、イギリスが、21か条の要求を突きつけた。
その間に入ったのが、アメリカで、その支援を受けつつ、イギリスとの、平和条約の交渉を行った。犠牲はあったが、1946年に、平和条約を締結したのである。
上記、あまりにも簡潔過ぎるが、タイは、日本のような敗戦による、辛苦を舐めずに済んだ。
マッサージの時間がきたので、私は、出掛けた。
フットマッサージである。
彼女が、喜んだのは、当然である。矢張り、お客は、私一人だった。
フットマッサージは、通りから見える、一階で行う。
彼女は、饒舌になった。
片言の英語で、色々と話しかけてくる。私が、毎日通えば、上客である。
色々な質問に、単語で、答えた。
独身、仕事で来ている等々である。
次第に、営業になってくる。
明日、オイルマッサージをするかと言う。オッケーと答えた。
喜ぶ。
そして、店から、ボスが出て行くと、収入の話を始めた。
今日の、フットマッサージは、200バーツである。自分の取り分は、60バーツであるという。つまり、100バーツにつき、30バーツが、彼女の取り分である。
タイでは、チップを渡すことが、当然になっている。チップが無ければ、生活が出来ないのだ。それは、野中からも、聞いていた。
私は、20バーツのチップを渡していたので、彼女の収入は、一時間で、50バーツである。約、170円。時給170円は、安い。しかし、それが現実である。
話は、続く。
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