木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第一八話

 

コンサートの翌日は、帰国の前日である。

11日、日曜日の朝は、地元の人の食堂に出た。

 

安くて、旨い。

モーニングセットを頼む。50バーツ。約170円。

朝から混雑していた。

私は、店の入り口の席についた。

タバコが吸えるからだ。

 

日本の空港で買った、免税のタバコも、もう、その一箱のみになった。

早かったが、随分とタイにいたという感慨である。

本も無く、パソコンも無いゆえに、実に、のりびりとしていた。

 

その時、日本にいると、どうして弛緩出来ないのかと、考えた。

毎日、緊張して生活している。

勿論、現実の様々な問題がある。毎日、毎日、それに、翻弄される。そしてそれが、現実である。現実逃避をしないゆえに、毎日が、緊張の連続である。

しかも、自由業である。

朝から晩まで、いや、24時間、仕事を続けていても、誰も何も言わない。

 

タイや、バリ島で暮らす人が増えた。

高齢の方も多い。それは、それでいいことだと思う。

だが、中に、日本の社会に適応せずに、また、生きられないが故に、タイや、バリ島で、長期滞在をするという人がいる。

その人たちの中には、非常に無作法で、傲慢な者も多い。

日本の円が、少しばかり強いゆえに、小金を持っていても、金持ちの生活が出来るのである。

勿論、いつまでも、続かない。

 

それから、新しいタイプとして、日本で暫く働き、お金を貯めると、タイやバリ島に来て、暫く過ごすという。

日本のテンポについてゆけない若者たちである。

だが、お金は、日本でなければ、稼ぐことが出来ないゆえに、帰国して、また、お金が貯まると、国を出る。

 

流浪の旅を続けるのである。

 

人生の流浪である。

それも、一つの生き方になる。

 

日本で生きる、日本で生き抜くというのは、実に、大変なことになっている。

勿論、それぞれの国も、様々な問題を抱えているが、当面は、日本を出ると、外国人として、その国の、問題に触れずに過ごせる。

それも、善し。

 

だが、いつか、問われる時がくる。

その時のために、何を準備するのか。

人は、確実に年を取る。

年を取るということだけでも、日本にいては、不安である。

だが、国外に出ても、その問題は、無くなってはいない。

一時的に、忘れるだけである。

 

日本への、帰り仕度をしなければならない。

私は、ホテルに戻り、荷物の整理を始めた。

 

買い物をした際に、品物を入れた袋が多い。

タイでも、この袋を撤廃する運動が、始まっている。買い物袋の撤廃は、日本も、そうである。

ただ、その袋が、旅先では、実に役立つから、複雑な心境になる。

 

そして、ミネラルウォーターである。

日本以外では、水道の水が飲めない。飲むと、とんでもないことになる。水当たりである。

私は、一番安い水を、まとめて買う。

飲み切れればよいが、飲み切れない水を、どうするか、考える。

結局、持って動くことにした。もったいない。

だが、飛行機に乗る前には、すべて没収される。

国内線でも、国際線でも、である。

 

最小限の荷物のみ持って来たので、整理は、すぐに出来た。

 

野中は、友人の家に泊まりにいって、まだ帰らない。

私は、一人で、昼食を取るために、ホテル前の、イタリア料理の店に出た。

 

客は、誰もいない。

私が行くと、ウエイトレスと、女の子がいた。

ウエイトレスは、英語が出来ない。

女の子が、紙を持って注文を取りに来た。

指で、メニューを指すと、その子は、アルファベットで、丁寧に、紙に書いている。

暫くすると、顔馴染みの、オーナーの妹が、戻ってきた。

その女の子は、オーナーである姉の娘だった。

 

カルボナーラを頼んだが、以前のイタリア人が作るものとは、別物だった。

油が多くて、何とも、言いようが無い。

しかたないが、すべてを食べた。

この年になると、油分は、大変な負担になる。

 

タイも、バリ島も、油を使う料理が多い。その油の質にもよるが、バリ島の屋台で買った揚げ物を、少し食べて、とんでもなく、胸焼けしたことがある。それ以来、屋台での、揚げ物は、買わない。

聞くと、バリ島の屋台の油は、捨てることなく、継ぎ足すという。何とも、言えない。

古い油に新しい油が交じるということだ。

 

胃のもたれが心配だが、すでに、食べてしまったから、どうすることも出来ない。

しばし、ベッドで、休む。

そのうちに、野中が、戻った。

野中も、帰り支度を始めた。

帰国するという気分は、言い表せないものがある。

もう少し、滞在していたい気分と、帰らなければならないという気分で、複雑だ。

しょうがないから、又、次も来ると、自分に言い聞かせる。

 

最後の夜の食事は、チェンマイカレーの店に行きたいと、私が言う。

 

明日は、夕方、六時の飛行機で、バンコクに行き、深夜の便で、日本に帰ることになっている。

その最後に、驚くべきことがあった。

次に書くことにする。

 

最後の夜の食事になる、チェンマイカレーを食べるために、ホテルを出た。

何度、この街に来ることになるのか、解らないが、生きていれば、来年は、確実に来る。

生きていれば、何度も来るだろう。

 

この街に、縁する何かが、私の運命の中にあったのだという、驚きである。

観光旅行は、しない。

いつからか、そう決めた。

10年程前に、上海に出掛けてから、ピタリと、旅行を止めた。止めざるを得なかった。

パニック障害になったからだ。

これを書けば、長くなるので、省略するが、ただ今は、乗り物に乗ることが出来るようになった。

 

ただ、不思議な病である、パニック障害は、私に、多くのことを教えた。

誰にでもあることだが、それが、顕著化する。

心臓が、飛び出しそうになり、蒼白になり、生き絶え絶えになるという、その状態は、如何ともし難いのである。

 

底辺に、欝状態がある、といわれる。

だから、抗欝剤が、効くといわれる。

脳内物質のせいである。

つまり、私は、因縁と、考える。そして、その症状にある私が、また、私の、もう一人の私なのである。

死ねば、治る。病で、治らないものは無い。死ねば、治るのである。

それまでの、辛抱である。

 

死ぬこと、生きること。それは、次元を別にしたことである。

単なる、次元の別を、云々することである。

 

生きていればこその人生である。が、また、死んでこその人生である。

この世は、次元の違いがある。

天国も、地獄も、この世のものである。

味噌も糞も一緒なのが、この世である。

この宇宙から、逃れる以外は、無という状態は無い。

すべては、人間が創造したものである。

何を恐れることがあろう。結局、見えるものしか、見えないのである。