コンサートの翌日は、帰国の前日である。
11日、日曜日の朝は、地元の人の食堂に出た。
安くて、旨い。
モーニングセットを頼む。50バーツ。約170円。
朝から混雑していた。
私は、店の入り口の席についた。
タバコが吸えるからだ。
日本の空港で買った、免税のタバコも、もう、その一箱のみになった。
早かったが、随分とタイにいたという感慨である。
本も無く、パソコンも無いゆえに、実に、のりびりとしていた。
その時、日本にいると、どうして弛緩出来ないのかと、考えた。
毎日、緊張して生活している。
勿論、現実の様々な問題がある。毎日、毎日、それに、翻弄される。そしてそれが、現実である。現実逃避をしないゆえに、毎日が、緊張の連続である。
しかも、自由業である。
朝から晩まで、いや、24時間、仕事を続けていても、誰も何も言わない。
タイや、バリ島で暮らす人が増えた。
高齢の方も多い。それは、それでいいことだと思う。
だが、中に、日本の社会に適応せずに、また、生きられないが故に、タイや、バリ島で、長期滞在をするという人がいる。
その人たちの中には、非常に無作法で、傲慢な者も多い。
日本の円が、少しばかり強いゆえに、小金を持っていても、金持ちの生活が出来るのである。
勿論、いつまでも、続かない。
それから、新しいタイプとして、日本で暫く働き、お金を貯めると、タイやバリ島に来て、暫く過ごすという。
日本のテンポについてゆけない若者たちである。
だが、お金は、日本でなければ、稼ぐことが出来ないゆえに、帰国して、また、お金が貯まると、国を出る。
流浪の旅を続けるのである。
人生の流浪である。
それも、一つの生き方になる。
日本で生きる、日本で生き抜くというのは、実に、大変なことになっている。
勿論、それぞれの国も、様々な問題を抱えているが、当面は、日本を出ると、外国人として、その国の、問題に触れずに過ごせる。
それも、善し。
だが、いつか、問われる時がくる。
その時のために、何を準備するのか。
人は、確実に年を取る。
年を取るということだけでも、日本にいては、不安である。
だが、国外に出ても、その問題は、無くなってはいない。
一時的に、忘れるだけである。
日本への、帰り仕度をしなければならない。
私は、ホテルに戻り、荷物の整理を始めた。
買い物をした際に、品物を入れた袋が多い。
タイでも、この袋を撤廃する運動が、始まっている。買い物袋の撤廃は、日本も、そうである。
ただ、その袋が、旅先では、実に役立つから、複雑な心境になる。
そして、ミネラルウォーターである。
日本以外では、水道の水が飲めない。飲むと、とんでもないことになる。水当たりである。
私は、一番安い水を、まとめて買う。
飲み切れればよいが、飲み切れない水を、どうするか、考える。
結局、持って動くことにした。もったいない。
だが、飛行機に乗る前には、すべて没収される。
国内線でも、国際線でも、である。
最小限の荷物のみ持って来たので、整理は、すぐに出来た。
野中は、友人の家に泊まりにいって、まだ帰らない。
私は、一人で、昼食を取るために、ホテル前の、イタリア料理の店に出た。
客は、誰もいない。
私が行くと、ウエイトレスと、女の子がいた。
ウエイトレスは、英語が出来ない。
女の子が、紙を持って注文を取りに来た。
指で、メニューを指すと、その子は、アルファベットで、丁寧に、紙に書いている。
暫くすると、顔馴染みの、オーナーの妹が、戻ってきた。
その女の子は、オーナーである姉の娘だった。
カルボナーラを頼んだが、以前のイタリア人が作るものとは、別物だった。
油が多くて、何とも、言いようが無い。
しかたないが、すべてを食べた。
この年になると、油分は、大変な負担になる。
タイも、バリ島も、油を使う料理が多い。その油の質にもよるが、バリ島の屋台で買った揚げ物を、少し食べて、とんでもなく、胸焼けしたことがある。それ以来、屋台での、揚げ物は、買わない。
聞くと、バリ島の屋台の油は、捨てることなく、継ぎ足すという。何とも、言えない。
古い油に新しい油が交じるということだ。
胃のもたれが心配だが、すでに、食べてしまったから、どうすることも出来ない。
しばし、ベッドで、休む。
そのうちに、野中が、戻った。
野中も、帰り支度を始めた。
帰国するという気分は、言い表せないものがある。
もう少し、滞在していたい気分と、帰らなければならないという気分で、複雑だ。
しょうがないから、又、次も来ると、自分に言い聞かせる。
最後の夜の食事は、チェンマイカレーの店に行きたいと、私が言う。
明日は、夕方、六時の飛行機で、バンコクに行き、深夜の便で、日本に帰ることになっている。
その最後に、驚くべきことがあった。
次に書くことにする。
最後の夜の食事になる、チェンマイカレーを食べるために、ホテルを出た。
何度、この街に来ることになるのか、解らないが、生きていれば、来年は、確実に来る。
生きていれば、何度も来るだろう。
この街に、縁する何かが、私の運命の中にあったのだという、驚きである。
観光旅行は、しない。
いつからか、そう決めた。
10年程前に、上海に出掛けてから、ピタリと、旅行を止めた。止めざるを得なかった。
パニック障害になったからだ。
これを書けば、長くなるので、省略するが、ただ今は、乗り物に乗ることが出来るようになった。
ただ、不思議な病である、パニック障害は、私に、多くのことを教えた。
誰にでもあることだが、それが、顕著化する。
心臓が、飛び出しそうになり、蒼白になり、生き絶え絶えになるという、その状態は、如何ともし難いのである。
底辺に、欝状態がある、といわれる。
だから、抗欝剤が、効くといわれる。
脳内物質のせいである。
つまり、私は、因縁と、考える。そして、その症状にある私が、また、私の、もう一人の私なのである。
死ねば、治る。病で、治らないものは無い。死ねば、治るのである。
それまでの、辛抱である。
死ぬこと、生きること。それは、次元を別にしたことである。
単なる、次元の別を、云々することである。
生きていればこその人生である。が、また、死んでこその人生である。
この世は、次元の違いがある。
天国も、地獄も、この世のものである。
味噌も糞も一緒なのが、この世である。
この宇宙から、逃れる以外は、無という状態は無い。
すべては、人間が創造したものである。
何を恐れることがあろう。結局、見えるものしか、見えないのである。
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