木村天山旅日記

トラック諸島慰霊の旅 平成20年1月

第四話

私たちは、個室で食事をした。

ツゥジィーさんは、話に熱が入ると、私たちと一緒に椅子に座り、話を続けた。

 

ツゥジィーさんの、おじいさんである、日本人が、戦争中に、日本に戻った。そして、敗戦である。

母親の、兄弟である、長男が、父を訪ねて、日本に渡る。そして、見たものは、東京の焼け野原である。

父の居場所も、解らない。連絡も取れない。

皆で、日本で暮らそうとしたらしいのである。

 

しかし、ツゥジィーさん曰く、天皇陛下が、駄目だと、言ったと。

つまり、日本には、住めないということ、なのだろう。

ツゥジィーさんの口から、何度も、天皇陛下という言葉が出た。

彼女に取って、天皇陛下は、非常に親しみのある、それでいて、権威ある方なのであろうと、感じた。

 

その後は、父と離れ離れの生活である。

つまり、彼女のおじいさんである。

彼女の、母親の、上の兄弟たちは、皆、日本語を読めて、書くことが出来るという。

 

印象的だったのは、彼女の母親が話す、日本統治の頃の、チューク諸島の、素晴らしさである。現在のグアムより、凄かったという。

 

デュプロン島、日本名、夏島が、その当時、日本統治の主たる島であり、街が出来て、暮らしも、豊かであった。

今は、見る影も無いという。

その、夏島は、戦争時に、日本軍の様々な施設が、作られた。それは、現在も、跡地として、残っている。

 

戦争末期の悲劇は多い。

食べ物がなくなり、島民は、甚だしい食糧難に、直面した。

その時、多くの悲劇が起こった。

 

当時、中国、朝鮮からの、移民も多かった。

それらは、日本統治下にあり、日本人としての、入植である。

食糧難になると、中国人、朝鮮人が、現地の人を、借り出して、農地を開拓させて、働かせたという。

そこで、空腹の者が、働けなくなると、生きたまま、手足を縛り、生き埋めにして、殺したというものである。

それが、日本軍が、行ったと言われることもあるという。

 

また、現地人を、食べるというものである。

その犠牲になった家族が、戦後、日本に保障を求めた。

それは、中国人が、日本軍が、現地人を食べたという、噂を流したからであるという。

日本の、ある団体は、その家族に、大枚な、保証金を払ったという。どこの団体なのかは、察しがつくが、ここでは、省略する。

 

スペインからドイツ、そして、日本と、統治が変わったことにより、混血が、多く生まれた。しかし、中でも、日本人の血を持つ人は、日本人であるということで、誇りを持っているという。

勿論、彼女も、日本人の血が流れているゆえの、言葉であろう。

ドイツの血を持つ者は、ドイツに、誇りを感じているだろう。

 

さて、私は、遺骨の見世物について、尋ねた。

 

当然あるという。

ダイビングで、いくらでも、見ることが出来るという。

彼女は、見世物という言葉に、抵抗しなかった。

 

そして、この話は、多くの、現地人が、言うことであった。

遺骨は、見ることが出来る。

ただし、私が、産経新聞で、読んだ記事にあるようなものなのかは、まだ、確定してはいない。

更に、調べる必要があると、思った。

 

島の人は、遺骨を見ることを、簡単なことであるという。

そして、見世物という言葉にも、抵抗しなかった。

 

問題は、そこである。

当然と、島の人が言うのである。

 

その、当然という意味を、調べる必要がある。

 

私たちは、明日、慰霊を終えて、また、来ると、約束して、ツゥジィーさんと、別れた。

 

驚くべきことは、多かった。

それは、戦争、遺骨などの、ことだけではない。

この島の人々の暮らしに関してもだ。

 

ホテルに戻りつつ歩くと、皆々、私たちに、声を掛ける。

日本人かという声もあった。

日本人に対する、好意的な、声掛けは、凄いものだった。

 

後で知ることになるが、島民は、日本人に、実に友好的、好意的なのだそうだ。

当然である。

彼らの多くに、日本人の血が流れている。

多くの言葉が無くても、何となく通じるということからも、それが、解る。

後半、特に、それを感じる出来事が、あった。

 

ホテルに戻り、少しの休憩をする。

 

私は、明日の追悼慰霊の、準備をした。

といっても、御幣を作る紙を取り出し、日本酒を用意して、今回は、祝詞だけの、慰霊の儀を行うと、決めていた。

経本のたぐいは、一切持って来なかった。

 

夕方になったので、野中が、海上慰霊をしてくれるといった、おじさんに、連絡するために、電話を掛けた。

部屋から掛けたのだが、出ない。

そこで、フロントに行き、そこの、公衆電話を使ったが、出ないという。

 

夜に、もう一度、連絡したが、出なかった。

 

私が、ホテルで、休み、準備をしている間に、野中は、ホテルの先、島の先端に向かって歩いたらしい。

そこで、出会った人々に、食事をご馳走になり、一人の男の子が、ガイド役で、着いて来てくれたという。

ガイド料が、二ドルであった。

彼は、それで、家計を支えていたということを、後で解る。

 

野中の話を聞きつつ、ホテルのレストランで、夕食を取った。

八時過ぎである。

ビールを注文した。

何と、アサヒビールが置いてある。

私たちは、バドワイザーを二つ頼んだ。

缶ビールである。350である。

 

その夕食は、二人で、30ドル以上、つまり、三千円以上であった。とても、料金が高いのである。

現地の人には、手が出せない料金である。

だが、私は、その時まで、それが、高いものだとは、知らない。当たり前に感じていた。

 

缶ビールは、日本でも、150円前後であるが、その倍以上の料金であった。

 

野中が、朝のうちに、慰霊をした方がいいという。

太陽が、まだ、登り切らないうちにしなければ、とんでもないことになると言う。

日焼けに慣れていない。

朝九時頃に、出掛けようということになった。

しかし、あの、おじさんと、連絡がつかないのである。

 

私たちは、もし、まだ、連絡がつかないようなら、直接、漁師たちの所に行き、交渉しょうということになった。

市場の横に、漁師たちが、たむろしていたからだ。

 

こんなに、早く寝ることはないと思いつつ、十時を過ぎて、私は、ベッドに着いた。

 

エアコンを切り、窓を開けた。

夜風が、ともて、心地よい。

 

少しの電灯で、外は闇だ。

ベッドから、丁度、満月に近づく月を見た。

 

兎に角、風が心地よいのだ。