木村天山旅日記

タイ・ラオスへ 平成20年2月

帰国してから

矢張り、胃腸の調子が、悪く、一週間ほどは、下痢を繰り返した。

帰国した、翌日は、熱も出たほどだ。

 

あれが、悪かったという、一つの食べ物ではなく、複合的なものだったと、思う。

 

水で洗った、生野菜、店先で焼いている肉など、そして、スープの水である。暫くの、沸騰だといいが、ある程度の、沸騰だと、菌が殺せない。

腸内細菌の、有り様が、あちらの食べ物に、負けるのだ。

 

長期滞在だと、それも、しょうがない。

あちらの、菌に慣れるのみ。

 

ただ、鳥インフルエンザが、人に、そして、人から人にと、新型インフルエンザが、世界的に広がるという、話である。

また、新しい病気が、増えた。

 

ただ、私は、バリ島や、タイで、放し飼いで、飼っている、鶏などを見ている。その命を、いただいて、命を繋ぐ。そういう、命の、交換の、有り様を見る。

子供たちも、生き物を食べて、生きるという、学びをする。日本には、無い、教育である。

 

放し飼い 鶏つぶし 食べるのは 命の教育 極まれるなり

 

生き物を 食べて命を 繋ぐなり それを忘れし 人は愚かと

 

その鳥から、異常な菌が出るとは、何とも、複雑な思いである。

 

そして、ラオスのことである。

見ないと、思い、入らなかったが、矢張り、支援をしたいと、次は、直接ラオス入りしょうと思う。

子供服のリサイクルである。

 

野中が、渡したという、皆々の写真を見て、矢張り、やろうと、決めた。

資金は、何とかなると、思うのみ。

 

原油高は、貧しい人を、益々、貧しくする。

ノーン・カーイでは、普通の店先に、ウイスキーの瓶に詰めた、ガソリンを売っていた。それも、半分程の量である。

走る分量だけ、入れるのだろう。

 

ラオスでは、廃車となる車を乗っているという。

さらに、酷い状況である。

車を使う度に、バッテリーに電気を入れるという。

 

勿論、それぞれの国のことは、その国の、政治の問題であり、関与できないことである。

ただ、言えることは、主義など、どこ吹く風である。

政治家は、支配者層に入り、一人勝ちである。

共産、社会主義も、幹部になれば、良い生活が出来る。

社会体制など、ナンボのものでもない。

 

兎に角、国民、民が、幸せであること。

広く、富が分配されること、これが、理想である。

しかし、それが、歴史のテーマでもあった。未だに、解決するような、思想は、生まれない。

 

富を独り占めする者たちとの、戦いである。

 

生き物の化石の、石油で、溢れるはがりに、金を得ている人々がいる。

ドバイを聞くが、どれほど、持つだろう。

石油の権利を有する者、王だというから、呆れる。

 

アラブの金持ちに、憧れることはない。

 

地獄とは、この世のことである。

格差甚だしく、世界の七割が、飢える。

 

GMP二位の日本が、十二位になった。

貧しいインドも、日本より、長者が多い。

 

誰も、日本の貧しい子供たちのためにと、世界から、ボランティアに来ることはない。

しかし、インドの貧しい子供たちのためにと、日本人が、ボランティア活動をしている。

矛盾である。

 

格差といえば、インドの格差は、天文学的格差である。

最も、ヒンドゥーは、金持ちに生まれるのは、前世の行いが良かったからであり、貧しいのは、前世の行いが、悪かったと、単純に考える。

だから、貧しい人を見ても、平然としている。

 

インド独立の、ガンジーは、立派な人であるが、彼は、また、仏教徒を、最低最悪の、環境に置いた。

カーストにも、入らないという、最悪の身分を得ている。

 

マザーテレサも、尊敬される、行動を起こしたが、何一つ、インドの考え方に、影響を与えなかった。

キリスト教世界に、大きな影響を与えたが、それならば、詮無いことである。

 

マザーテレサが、宗教ではなく、人道として、人類愛の行為として、語れば、もう少し、世界に影響を与えた。

神様のために、素晴らしいことをと、言い、逃げてしまった。

キリスト無くして、彼女の行動は無い。

 

どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいのだと言えば、それで、終わりである。

 

NPOヤクザというものがいる。

善を成しているという、前提の元に、私腹を肥やすという、輩だ。

どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいとは言えない。

 

寄付商売というものがある。

それは、また、乞食商売とも、言う。

 

説明するまでもない。

私も、その一人である。

その自覚を、持っている。

支援を受けて、行動する。

自分を律する力が必要である。ゆえに、私は、法人を取らない。あくまで、個人活動である。興味があれば、私と、一緒に行動すれば、いいのだ。

 

私が、何をしているのか、その目で、見ればいい。

 

何を言うのかではなく、何をしているか、それが、問題である。

 

ラオスに、野中一人を送り、支援の子供服を、配らせた。

野中が言う。

偽善的行為のように、思えて、本当に、勇気がいたと。

しかし、それをして、皆の顔を見て、偽善的行為でも、何でもいい、皆が、喜んだ。そして、それは、日本の、皆から、貰ったものである。

単に、自分は、橋渡しをしているだけだ。

更に、村の人々が、野中を仲間のように、扱ってくれた。

村を案内された。

友人になった。

私は、それで、いいと、思う。その他に、望むことはない。

 

布教でも、主義でも、主張でもない。

ただ、友人としての行為である。それで、いい。

 

偽善か、否かは、私の心一つの、問題である。

 

ある有名、カトリック作家は、ヤクザからでも、寄付を貰うと、言った。お金は、使い方であると。

あえて、カトリック作家というのは、彼女が、それを望むだろうと、思うからである。

 

善と偽善の間にあるものは、私一人の心の、問題である。

 

野中は、以前の自分ならば、鼻で笑った行動であったという。

 

つまり、多くの人は、鼻で笑うのであろうと、思う。

しかし、やらないより、私は、やるのである。それは、私だからである。

 

追悼慰霊行為というのは、誰も、理解できない行為である。

つまり、それは、目に見えない世界を扱うからである。

そして、理解されることは、皆無に近い。

そのついでに、私は、支援活動を行うのである。

 

その程度の行為である。

 

恥ずかしき その行為でも やらぬより やることを取る それ私ゆえ

 

中学三年の冬、私は、募金活動をしていた。

突然、その時、顔から、火の出るような、恥ずかしい思いに、とらえられた。

それから、ボランティア活動を止めた。

 

ただし、頼まれると、引き受けていたが、私が積極的にすることはなかった。

 

ボランティアは、ラテン語の、ボルンタスという語から出た。

意味は、生きる意味意識である。

 

その行為は、生きる意味意識を得ることなのである。

 

それでは、人生、ボルンタスである。

すべてが、それである。

 

私は、精々、殺されぬ、程度の行動を、心がけて、やることだと、思っている。

 

勿論、後は野となれ山となれ、野垂れ死にを、希望の人生であるから、どうでも、いいのだが、まあ、その程度だと、言う、つもりである。

 

それにして、日本は、良い国である。

安心して、水道の水を飲める。

水を飲んで死ぬことがない。

 

水は、命である。