木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第2話

イギリス人は、アボリジニを、動物より、少しマシな、生き物と、認識した。

裸族である。

その、裸であること、野蛮であると、認識するが、はたして、野蛮なのか。

 

私の、泊まる、モーテルの前は、ビーチである。

しかし、浅瀬で、有明海のように、暫くは、干潟である。

 

その街側に、プールがある。

案内書には、一度は、行くべきだと、書かれている。

そこで、見た風景は、白人の、裸体である。

白人の裸体を、あのように見たのは、初めてである。

 

裸は、野蛮なら、彼らの方が、余程、野蛮である。

 

紫外線も、なんのその、体を日に当てて、焼くのである。

美人も、ブスも、色男も、不男もである。

 

私は、一カップ、400円程度の、アイスクリームを食べつつ、それらを、見て回った。

そして、笑った。

 

バイキングの子孫を、王室として、認知している、彼らである。

この、オーストラリアも、王室の所有と、相成った、過程がある。

勝手に、イギリス王の物であるという、宣言である。

 

原住民の、アボリジニを、野蛮であるとは、笑わせる。

 

どんだけー、の、歴史である。

イスラム帝国、インド、中国の歴史から見ると、彼らは、未開の人種である。

追々書くことにする。

 

勿論、私は、白人を嫌ってはいない。

不男になる前の、白人男性は、少年というか、素晴らしい、美形である。

不男になっては、お仕舞いであるが。女性も、同じである。

 

他人の土地に、土足で上がり込んで、好き放題の歴史は、反吐が出る。

日本が、侵略した、侵略したと、お詫びするが、イギリスは、一度か、お詫びを、しただろうか。

皇室が、イギリス王室と、仲良くするのは、どうでもいいが、真似だけは、しない方がよい。

ゴキブリのように、他国、大陸に、進出したのである。

大義名分も、あったものではない。

 

そして、キリスト教である。

あれは、一掃しなければ、世界に、平和は無い。

独善の、最もたるものである。

 

カトリック、プロテスタント、然り。

文明人は、キリスト教徒たれと、今でも、アボリジニを、支配するのである。

 

書いたついでに、言えば、彼らは、悪魔の手下である。

聖書の神は、悪魔、悪霊と、すでに、証明されている。

 

アーネムランドに、行き、ミッション系が、アボリジニの、ボランティア、お助けをしていると、聞いて、反吐が出た。

 

彼らが、アボリジニにしたことが、どんなことか、このエッセイにて、書く。

 

ワンカップ、400円のアイスクリームは、とても旨い。

貧乏人の私は、これがタイなら、50円なのになーーーと、思う。

どういう訳か、少し前から、アイスクリームが好きになった。というより、昔の感覚を思い出したのだ。

酒を飲むようになると、自然、甘いものを、食べなくなる。

この頃、甘いものが、美味しい。つまり、糖尿であろうと、思う。

 

美食をしていると、糖尿になるのではない。体質である。しかし、私の家系に、糖尿病の人はいない。

ただし、そういう気があるということは、ある。

 

さて、スーパーでは、ハムなど、量り売りのものを、買った。

どういう注文の仕方がいいのか、解らず、ワンハンドレットグラムと、言ってみた。

最初の、店員は、ボーイである。少し、イケメン。

通じた。

翌日は、おばさんである。通じた。

そして、三日目は、別な、ボーイである。

通じた、通じたついでに、彼は、私に話しかけてきた。

日本人か。そうだ。観光か。そうだ。楽しいか。楽しい。

みたいな、会話である。

 

質問することは、出来るが、相手の英語が、聞き取れないという、愚かしいことになる。

 

子供でも、質問すると、ペラペラと、喋る。しかし、その意味が、解らない。

場所を、尋ねる。すると、丁寧に教えてくれる。しかし、解らない。うんうんと、頷く。そして、その、手の先を見て、その通りに、歩いてみる。

その、連続だった。

 

しかし、英語は、学ぶ必要は無い。私にとっては。

 

英語教育は、中学生くらいから、すればよい。

本当に必要になると、覚える。

それで、食わなければいけなくなると、幾つになっても、覚える。その必要がないから、覚えない。

日本語の出来ない者が、英語をしっかりと、身につけることなど出来ない。

 

しょうもない会話程度の英語など、覚えても、どうしようもない。

ただ今、日本語を、覚えると、世界の書物が、読むことが出来る。翻訳が、素晴らしいのである。

世界で、一番である。翻訳されるものが。

 

英語など、身につけるより、余程良い。

 

英語を学べばバカになる、という本を書いた、薬師院仁志という方の、言葉を引用をする。

 

英語圏以外の国では、一部を除いては英語は通じない。

 

自由というのは、すべての者に選択の機会が平等に保障されてはじめて成り立つものである。たとえば、自動車を買うか買わないか、買うとしたらどの自動車を買うかは、消費者の自由だというのが建前になっている。たが、現実には、そんな自由など存在しない。各人の経済力が選択の自由を無効にしているのである。

 

日本人が、英語が下手なのは、

最大の原因は、我々日本人が英語を必要としていないことにある。

という。

 

外国語が出来なくても生活が成り立つのは強者の印である。国全体がそうならその国は強国である。

 

外国語に依存せずとも生きてゆけるという日本の状況は喜ぶべきことなのだ。さらに言えば、英語に支配された国々がアメリカ化への防御壁を失っている一方、母語が安定している国は、自分たちの社会を自分たちで考える可能性を持っているとさえ言える。われわれは、莫大なカネと時間と努力とを要する英語公用語化を考えるよりも、日本語で成り立つ社会を維持し発展させることを考えた方が得策なのである。

 

勿論、英語通訳という仕事もあり、英語で、生活出来る人もいる。

それは、特技である。

 

兎に角、日本人は、まず、日本語なのである。

しっかりした、日本語が出来ない者の、英語は、聞いていられない。

実に、下らないのである。

 

ただし、私のように、日本語英語で、図書館ある、どこに。などということになる。

しかし、通じる。

 

あんた知ってる、スーパー、どこに。平然として、尋ねる私に、彼らは、優しい。

酒、どこにある、店。

すると、丁寧に、答えてくれる。

不自由しない。

 

一番は、発音が、通じないことである。

イントネーションが、違うのである。

サンキユウ、ではない、キューなのである。聞こえない音がある。

 

でも、どうでもいい。

旅行者であるから、彼らが、理解しようとする。

まして、相手が商売をしているならば、必死に、こちらの言い分を聞いてくれるのである。

ということで、私の英語は、楽勝である。

 

ただし、深い話になると、同行の野中を呼ぶ。

通訳されるというのも、快感である。

その間に、考えることが出来る。

 

オーストラリアの人は、実に、話し好きである。

どうでもいいことを、延々と、話している。

 

延々と、行列が出来ていても、世間話を続けるバカもいるのである。

 

一つ質問して、延々と話をはじめた人もいる。勿論、こちらは、意味が解らない。

オッケーと、言われて、オッケーと、答えて、別れる。

それを、見ていた野中が、意味解ると、訊く。解らないと、平然としている、私である。

 

タバコを買うのに、軽いものという意味で、ライトと、言った。すると、ボーイは、ライターを出した。

違う。

もう、それで、いいと、目の前のタバコを指差す。

そんなことは、いつものことである。

 

もう、それで、いいという、タバコは、一番安いものである。

タバコが、高いのにも、驚いた。

700円以上である。

空港で買った、マルボロは、千円以上である。

それでも、吸うのと、野中に訊かれて、はじめて、高いと、気付いた。

 

いつもそうであるが、私は、頭の体操で、日本円に換算することにしている。今回は、楽だった。一ドル、約百円である。

 

一番、大変なのは、バリ島である。

インドネシアルピアは、ゼロの数が多い。

一万ルピア、十万ルピア、時々、こんがらかる。

 

千ルピアをチップで、上げて、変な顔された後で、気付く。

あーー、十円以下だ、と。

 

一万円が、90万ルピア程度である。

えーと、えーと、と、何度も、円に換算することになる。

いっそのこと、一万円が、100万ルピアになると、話が早い。

10万ルピアが、千円である。

それなら、10万ルピアは、900円である。一万ルピアは、90円。千ルピアは、9円。

このように、楽しむことが出来る。

 

ところが、水が、3500ルピアと、言われると、また、考える。

えーと、3000が、27円で、500ルピアが、千の半分だから、9円の半分は、4,5円で、31,5円だという風に。疲れる。

 

ああ、ここは、オーストラリアである。