木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第6話

聖地から、戻り、街中に出て、元の場所に帰った。

もう一度、コーヒーを注文し、しばらく、そこで休んだ。

その時は、地元の人々が、出ていて、コーナーには、一杯の人である。

 

白人が多いが、アボリジニも多い。

子供たちが、走り回っている。

 

昼は、モーテルで、食べようと、私は一人で、スーパーに入った。

まず、パンから選ぶ。

兎に角、分量が多い。

 

食パンを選んだ。食べきれるだろうかと、思いつつ。そして、野菜である。レタスを選んだ。ハムや、サラミは、豊富であるから、選ぶのが大変である。

パンに挟む、チーズは、日本に持って帰ることになる。

ジュースである。一リットルの、混合ジュースを一本買う。

もう一度、野菜売り場に戻り、果物を見る。

リンゴが、日本のものより、小さい。種類が多い。

ミカンを五個にした。

また、中に戻り、カップめんを二つ買った。

 

レジでは、計算しながら、袋に詰めてくれる。

さて、支払いである。

小銭は、全部だして、見せると、その中から、店員が、選んでくれる。

オーストラリアドルの、小銭は種類が多く、帰るまで、どれが幾らか解らなかった。

50ドルを出して、お釣りを貰う。

 

そして、野中の元に戻った。

買い物袋を持って、モーテルに戻るのは、大変なので、タクシーを使う。

ライトバンのタクシーが多い。

新しいタクシーは、日本と同じである。私たちは、それを、選んだ。

イラン人の、タクシー運転手だった。

 

何故か、会話が弾むのである。

午後に出掛けた、イルカラ・アートセンターにも、そのタクシー運転手に頼むことにした。

予定では、明日だったが、野中が、今日にしようということで、そうなった。

 

部屋に戻り、食事をする。

野中は、二つのカップめんを食べた。

私は、パンと、チーズと、ハムを食べる。

水を飲みながらである。

 

およそ、三千円程度で、明日の朝と、昼の分である。

 

一度、ベッドに、体を横にして、休んだ。

聖地での、祈りの所作を、思い出した。

野中と、色々話し合う。

アボリジニのことである。

 

二時頃である。

野中が、今日のうちに、イルカラに行こうと言う。

そこは、四時に閉館するので、十分に間に合うのである。

 

タクシーでは、10分程度で、着く。

野中は、館長に連絡した。

オッケーとの、返事を頂き、タクシーを呼ぶ。

 

イラン人の、運転手は、色々なことを、話した。

イランといっても、多くの民族があるという。

彼は、イランの西の地方の出身であった。

その歴史は、古く、四千年以上前からの、陶器の出土品がよく出るという。

ただし、その地方は、貧しい。

 

私たちが、子供服の支援をしていると、言うと、自分の故郷にも、出掛けて欲しいと言われた。

 

更に、彼は、日本に出稼ぎに出る、イラン人は、悪いことをして、強制送還されているという。確かに、イラン人は、多くの事件や、犯罪を犯す。

彼は、日本に出る、イラン人は、クズだと言う。本当の、イラン人は、真面目で、勤勉だという。

 

私たちの、活動にも、興味を示し、色々と、訊いてきた。

誰の命令なのかと訊くので、エンペラーだという。

エンペラーとは、誰か。

天皇という。

天皇とは、何か、誰か。政治的に、影響力があるのか。

政治的権力は、無いが、国民に尊敬されている。

それでは、タイの国王のような存在かという。

そうだと、答える。

 

あなたたちの費用は、天皇が出すのかと訊く。

いや、私が出す。

そして、天皇に、この活動を差し上げると、言う。

 

タイ国王と同じということで、相当に理解したようである。

実際は、タイ国王の方が、国民の支持は、大きい。九割のタイ人は、国王を支持する。日本の天皇について、私は知らない。

しかし、私の追悼慰霊の儀は、天皇に、捧げても、行われるのである。

 

野中の英語を、聞いていて、私は、それに付け加えて言ったのである。

 

知らない人のために、書く。

天皇は、日本国の象徴である。

昭和天皇は、人間宣言という、変なことを、強制されたが、現人神と言われた。本来、現人神とは、国民のことであり、天皇は、その総代であり、現人御神と、言われる。

 

天皇の政治は、国民を、公宝、おうみたから、と、呼んで、民を大切にしてきた。

 

私は、天皇制を、議論する者ではない。

右翼でも、左翼でもない。

私は、上、カミである。

日本の伝統にある、カミと呼ばれる民である。

 

カミは、また、頭とも、守とも、書く。私は、追悼慰霊の儀を執り行う、守、カミである。

 

それから、私たちは、フィジー出身、トンガ出身のタクシー運転手と、会うことになる。

そして、大きなテーマに発展した。

トンガにも、衣服の支援をして欲しいと、いうものである。書くと、長くなるので、省略する。

 

イルカラ・アートセンターに、到着した。

センターの前は、ヨォルングの住まいである。

 

実は、この、ヨォルングの人々は、強制的に、ここに移住させられた。

それは、鉱山建設のためである。

 

ゴーブは、鉱山の町なのである。

 

生活の場を、奪われた、ヨォルングの人々は、この土地を与えられて、仕事なく、国の保護によって、暮らしている。

実に、不自然な、生活である。

つまり、夢も希望も無い。

飼われているようである。

 

これは、後で、問題提起として書く。

 

この場所では、祈りは行わない。衣服支援のみである。

実は、明日、行くべきはずの、ダリンブイ・アウトステーションにて、追悼慰霊の祈りと、支援を、行うはずだったが、野中が、タクシー会社に交渉すると、一時間半ほどの道で、往復で、五万円以上の、金額を請求されたのだ。

私は、即座に、断れと言った。

それだけの、お金を使うなら、それを、そのまま、寄付した方がよいと、思った。

 

とんでもない、金額である。

精々、二万円程度を、想定していたのである。

 

それで、ここで、支援をすることにした。

 

最初に、出迎えた方が、館長で、白人の方だった。

そして、私たちは、地元の、代表者に、紹介された。

その方を、通して、皆に、支援物資を差し上げるということである。

 

これには、訳がある。

アボリジニの人は、物をくれる人は、悪い人という、イメージを持っている。

それは、宣教師たちの、行為だった。

原住民に、物を上げて、支配した。それも、親子を、隔離するという、とんでもない、行為を行った。

 

アボリジニを、人間と、見なさなかったのである。

文明人に、近くなるように、キリスト教徒に仕立てて、様々な、規則、規律を持って、子供たちを、教育した。

 

その弊害を受けたのは、現在の、四五十代の人である。

アボリジニの、伝承も、伝統も、受け継げず、さりとて、白人の文明を、受け入れられたかというと、中途半端である。

 

食事も、バランスの良い、現地の食べ物から、パンと、紅茶という食事にされて、今、それにより、糖尿病の人が、実に多い。紅茶に、大量の砂糖を入れて、飲んだからである。

 

彼らは、非常に病んでいる。

自分の、自己同一性を、持てないのである。

私は、誰か、何者なのか、という、戸惑いは、精神を深く傷つけた。

 

センターの前に、私は、衣服を広げた。

代表の方が、子供何人かに、声を掛けた。

丁度、この日は、学校が、休みで、皆、広場で、遊んでいたのである。

 

だが、いつもの、お渡しと違うのである。

 

おじさんは、私に、皆の好きにさせて下さいと言った。

私は、いつも、一人一人に、合った衣服を、手渡しで、差し上げる。

 

子供たちは、少しつづ慣れて、自分の合うものを選んだ。

遠慮しつつ、見守る子供には、私が、積極的に、その子に合うものを、選んだ。

 

中に、一人の女の子が、これも合わない、これも合わないと、おじさんに、衣服を投げ捨てている。

驚いた。

しかし、おじさんは、何も言わない。

実に、無礼な態度である。

だが、その意味も、解ってくる。

 

三分の一が、余った。まだ、貰いに来ていない子供も、多い。

 

私は、無理せず、暫く、その場に、置いていた。

そして、近くで、タバコをふかし始めた。

 

もう、終わりかなーと、思いつつ、見ていた。

ところが、一人来て、二人来て、また、差し上げるムードになる。

 

そして、また、止まる。

その繰り返しで、最後は、すべてが、無くなった。

印象的だったのは、大人たちである。

漸く、心を開いたのか、大柄な男が来た。

丁度、大人物もあり、私は、引き出して、見せた。

 

もう、その頃は、野中も館内に入り、おじさんも、いない。

私は、何気なく来る子供に合うものを、選んで、差し上げた。

 

ほとんど、無くなった。

小さな子は、自分に合う、可愛い服を手にして、静かに、微笑んでいた。

 

最後である。

若い、女性が来た。

決して、愛想がよいわけではない。

ブスッとして、私に、鞄の一つを指差した。

衣服を入れた、鞄が欲しいのだ。

私は、その鞄を、渡した。しかし、何も言わずに、それを、持って去った。

 

子供用と、大人用。しかし、中学生や、その上の世代が着るものは、無かった。

 

館内に、17,18,19の男の子などがいた。

私は、この子達に差し上げる物が無いと、気付いた。

 

言葉を交わす。

だるい笑いがある。

彼らの、親は、隔離されて育った。その子である。

どんな、精神状態かが、伺えた。

 

将来に、希望を抱く年代である。しかし、その気配が無い。

何かを諦めた顔である。

その、姿勢の様を見れば、解る。

こちらが、尋ねると、ポツリと、答えて終わる。会話が続かない。

 

歌にする。

 

17の 少年の憂い 何ゆえか それ以上を 訊けぬ我が胸

 

子供から 儀式経たあと 民族の あるべき姿 知りて悲しむ

 

200年の 統治のゆえの 悲劇をば 受けたることの 少年の涙

 

アボリジニと 我に告げたる 黒き人 オーストランアン 我にあらずと

 

伝承と伝統にこそ、生きるという、アボリジニの、それを、根こそぎ奪った罪は、重く深い。

 

何か、空しさを感じつつ、私は、しばし、そこに、佇んだ。

佇む以外にないのである。

 

悄然として、遠い空を眺めた。

人は、何ゆえ生まれて、何ゆえに、生きるのか。

少年の頃に、考えたことを、ここで、考える。

 

多くのことを、学んだはずである。

しかし、何一つ、役に立たない。

私は、私で、創造するしかないのである。

 

生きることは、演じることである。

そうして、今の今までやってきた。

今回は、男を演じて、生きる。今回は、独身で生きる。今回は、やりたいことを、やって生きる。今回は、そのままを、生きる。

 

今回は、子供を産まない。というより、産めない。

 

道端の 空見上げたる その先の 何事かある 何事も無い