木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第9話

16世紀半ばである。

ヨーロッパの様々な、航海者、冒険家たちが、国や王の命を受けて、オーストラリアにやってきた。

 

当時は、テラ・オーストラリアスと呼ばれて、知られざる大陸、巨大な富みに埋もれる大陸という、幻想を抱いていたようである。

1515年から1607年にかけては、ポルトガルと、スペインが、黄金の島と、幻の国を求めて、ジャワの南と、東を航海している。

 

ポルトガルは、1521年から、翌年にかけて、大陸の東海岸に来たが、何も見つけることがなく、引き上げる。

また、1567年に、スペイン人のアルバロ・デ・メンダーニャ、1605年には、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスが、黄金伝説の夢と、更に、カトリックの伝道活動に加え、スペイン領にするために、ペルーから、航海に出たが、どちらも、オーストラリアには、辿り着いていない。

 

1606年以降、オランダ船が、北部と、西部の海岸を航海し、この地を、ニュー・ホランドと、名づけた。

彼らが、見つけたのは、砂と、ハエ、そして、裸の野蛮人と、奇妙な動物だった。

 

その後も、何度か、大陸を見つけ出したが、利益になりそうなものを、見出せず、そのまま、置き去りにされる。

 

価値の無い大陸と、見られた大陸に、目をつけたのが、イギリス人だった。

イギリスが、欲しかったものは、移住者を送ることが出来る、新しい支配地だった。

 

面白い記述がある。

海賊だった、ウイリアム・ダンピアーという男が、書いた、日記である。

それは、後々、オーストラリアと、原住民に対する、偏見の元となるものだった。

 

この土地の住民は、世界で一番みじめな人々である。

背が高く、肢体が真っ直ぐ伸び、手足は痩せて、小さく長い。大きな頭、丸い額、隆起した眼を持つ。

顔は長く、不愉快な表情で、決して上品ではない。髪は、ニグロのように黒くカールしている。

肌の色は、ニューギニアの住民同様、石炭のように黒い。

衣服は、身につけていない。腰の辺りにガードルのような木の皮をつけたり、長めの草、三、四本の大枝を、ガードルの中に突っ込んで、裸体を隠している。

 

特に、彼は、二度に渡って、先住民に関して、生まれつきの醜さとか、今まで出会った多種多様な野蛮人の中で、最も不愉快な外見と最悪の顔の造作をもった人々であると、書く。

 

これが、アボリジニに対する最初の、そして、以後続く、偏見のはしりとなる。

 

この当時の、ヨーロッパの考え方が、如実に理解出来る、記述である。

つまり、文明、というもの。

文明人とは、産業世界に生きる人なのである。

そして、最悪なのは、キリスト教徒であること、なのである。

 

裸でいることは、ヨーロッパの人にとっては、貧しさの何物でもなかった。

 

彼らには、多く、アボリジニの真実が見えない、見ない思想を持っていたと、言える。

アボリジニたちの、食生活の豊かさなど、思いつきもしないのである。

 

今でも、そうであるが、欧米、特に、キリスト教徒たちは、自分たちが、理解できないものは、悪であると、考える。更に、推し進めて、悪魔からのものであると、考えるのである。

勿論、悪魔は、彼らの神なのであるが。

 

時代性というものがある。

野蛮という定義も、変化する。

いつしか、野蛮というものも、文明の悪に侵されていない状態であると、考えられるようになると、高貴な野蛮人という、へんてこな、言葉が生み出される。

 

1769年から1770年にかけて、ジェームズ・クック大佐の、遠征隊が、海岸部に接触し、正確な地図を作ることになる。

 

1770年の四月、タヒチから、南に向かったクックは、西に進み、ニュージーランドに着いた。そして、オーストラリアの東海岸に、向かう。

結果、東海岸部を、英国王室のものであるとする、領有宣言をする。

 

クックの記述を見る。

ニュー・ホランドの先住民は、地上で一番みじめな人々である。

しかし、現実には、我々ヨーロッパ人より、はるかに幸福である。必要以上の情報を得るわけではなく、ヨーロッパで追求されすぎる便利さというものに、惑わされることもない。

彼らは、静寂の中に暮らしている。

地上と海との調和のなかに生きているのだ。

生きるためにすべのものをもっている。むやみに望んだりはしない。

暖かく素晴らしい気候のなかに住んでいるし、空気というものを満喫しているので、衣服の必要性などほとんどない。彼らはこのことをよく知っている。

たとえ衣服を与えたとしても、ただ無造作に砂浜や森の中に、置いておくであろう。

端的にいえば、我々が与えるものなどに、何の価値も見出さないであろう。

自分たちに必要なものは、すべて与えられてあると感じているからだ。

生活は漁業と、狩猟に頼っている。耕作地というものが、ほとんどない。

 

18世紀の、ヨーロッパの思想は、自然に生きるということは、ロマンティズムとなった。

それが、高貴な野蛮人という、思想である。

 

しかし、ヨーロッパ文明の傲慢は、その土地を、無主の土地として、イギリス領有宣言し、ジョージ三世国王に、捧げるという、矛盾したものである。

 

ドリーミング

独自の世界観の中で生きてきた、アボリジニの伝承を、ドリーミングという。それは、文字で、表されるのではなく、絵や、儀式にて、表される。

 

その中で、白人が来たことを、暗示させるものが、残されている。

私は、学者ではないから、省略する。

 

結論を言う。

 

アボリジニの世界観、自然観は、こうである。

目の前にあるものは、すべて、先祖の夢である。

 

すべては、調和する。

 

従って、白人に対する態度も、最初は、受け流す、そして、一度拒否する。そして、最後は、受容しようとする。

すべてのものは、調和して、全体の中で生きている、それが、アボリジニの世界観であり、自然観である。それは、また、人生観でもある。

 

と、このうよに、書くこと自体にも、無理がある。

それは、言葉にできないほどの、強烈なものであると、思うからだ。

 

私は、日本人として、それを、理解する時、言挙げせず、という、古神道の、考え方に、非常に近いものだと、思う。

 

白人が来たことを、受け入れるならば、それも、先祖の夢であるから、先祖が、戻ってきたと、考える場合もあるということだ。

 

だが、白人が来たことは、アボリジニの悲劇の記憶になってゆくのである。

 

クックの領有宣言の後、イギリスは、使い道のないまま、大陸を放置していたが、フランスの学術隊が、オーストラリア航海をするという報を受けて、俄かに、活気づくのである。

 

1786年二月、東海岸と、隣接した島々の植民地宣言をするのである。

現在の、ニュー・サウス・ウェールズ州である。

八月には、流刑植民地をつくることを、発表する。

 

1787年、五月、初代植民地総督、アーサー・フィリップのもと、囚人約780人を含む、1200人を乗せた11隻の第一次流刑船団が、ポーツマス港を、出航した。

 

1788年、一月二十日、ボタニー湾に到着し、その後、船団は、二十六日、シドニー・コープに、上陸した。

 

産業革命による、急激な社会の変化に、伴い、犯罪者の増加である。その処置に困り果てた、イギリス政府は、大陸を、最大なる監獄にしようとした。

当初は、犯罪者を、アメリカに、売りさばいていたというから、驚く。ただし、独立戦争後は、不可能となった。

いや、驚くにあたらない。アフリカの黒人を、奴隷として、売りさばいていたのであるから、何とでも、する。

 

囚人の種類は、二級市民であり、教育を受けていない者が多く、アボリジニの複雑な文化などを、理解出来るような人々ではなかった。

これが、より一層の、悲劇を生むのである。