木村天山旅日記
 ゴールデントライアングルへ
 
平成20年
 10月
 

 第13話

マッサージを終えた後、水を頂き、私には、新顔の二人の嬢と、マッサージをしてくれた嬢と、四人で会話した。

 

三人共に、母子家庭である。

一人は、女の幼児が一人、もう一人は、男の子がいる。

と、そこで、私は、女の子用の服が、まだあったことを、思い出し、彼女たちに、必要かと、訊いた。

すると、欲しいと、言うので、それでは、明日持ってくると、約束した。

 

翌日は、夜の便でバンコクへ向かう日である。

夜の十時過ぎの飛行機であるから、十分に時間があった。

 

子供服を持参して、マッサージ店に出掛けた。

持ち物を、すべて持って出掛けた。

そして、彼女をたちに、選ばせた。

すべて、彼女たちに差し上げることが、出来た。

 

丁度良いサイズだったのだ。

そして、私は、タイマッサージを一時間受けて、次に来ることを、約束して、店を出た。

これで、持ち物が、皆、無くなった。

 

スタッフの野中と、合流して、昼食を、地元の人が利用する、食堂に出掛けて、30バーツの、タイラーメンを食べた。

約、100円の食事である。

ただし、タイの、麺類は、日本のものより、半分程度の量である。

何か、物足りない気がする。

私は、ハパイヤサラダを、追加した。ソムタムという、甘辛いソースで、仕上げてある。

ここでは、観光客用の味付けだった。つまり、あまり、辛くない。

 

それから、帰国の準備である。

荷物の整理をする。

バンコクで、着替えるために、着替える着物を、一番最後にして、荷物を詰めて、万事万端の準備が出来た。

 

支援のバッグも一つ、差し上げたので、一つ残ったものに、線香と、ロウソクを買ったので、入れた。

線香と、ロウソクは、亡き人を、偲ぶためである。

 

私は、お土産を買わない。

そのような、旅ではない。ただし、今回は、二つ、小さな物を、買った。卓上の塩と、胡椒入れである。抱き合った、人の形の、面白い、入れ物である。

 

最期は、書類の整理である。

飛行機の、搭乗手続きをするための、一セット。タイバーツの、取り纏め。

丁度良い程度に、バーツが、残った。

無駄なく、お金を使うが、矢張り、細かく出て行く。

交通費が、一番である。そして、宿泊費である。

しかし、それも、いつも、最低線で行っている。

 

タイの物価の安さに、助けられる。

買い物は、すべて市場であるから、地元の人と、同じ値段で買う。

水は、コンビニが、一番安い。

 

現地の価格に、慣れたことが、タイでの金銭感覚を得たようである。

昼の食事などは、市場で、カオニャオという、もち米のふかしたものと、おかずを買い、40バーツ、約120円程度で済む。

もち米は、日本の赤飯の感覚に似て、私は、大好きである。それに、腹持ちがする。

 

毎日行く、チェンマイカレーの店では、このカオニャオと、カレーを注文して、100バーツにもならない。

カレーにより、60バーツから、80バーツである。

200円程度で、十分満足する。

 

更に、旅の間、酒を飲むことが少ない。

疲れると、酒を飲めない。ビールも駄目である。兎に角、水を飲んでいる。

タイのビールで、一番安いものは、25バーツである。時に買うことがあるが、手をつけない。また、手をつけても、半分で十分になることもある。

 

タイの国内線は、突然変更などがあったりするので、二時間前を目安に、向かった。

夜、八時過ぎである。

ソンテウを頼み、チェンマイの街を見つつ、お別れする。

 

丁度、一つ前の便のチェックインが始まっていた。

次の便であるが、私は、搭乗手続きに向かう。

すると、難なく、スムーズに終わった。

 

二時間、空港で過ごすことになる。

空港内は、禁煙なので、また、一度外に出る。

再度入る時は、検査がある。

 

出たり入ったりをして、一時間前になり、搭乗口に向かった。

冷房がガンガン効いて、寒いほどである。

私は、バティックを腰に巻き、薄い毛布を、羽織った。実に、変な恰好である。

 

一便手前の飛行機は、おおよそ、満席である。

私たちの飛行機は、何と25名。

悠々である。

国内線は、席が決まっていないので、自由である。

後部座席に、陣取り、離陸して、安定飛行に入ると、すぐに、体を横たえた。

サービスは、一切無いので、そのままでいられる。

 

乗務員に、トントンと、肩を叩かれた。

着陸である。

私は、眠っていた。

あっという間に、バンコクである。

 

24時間、眠らない空港である。

いつものように、一階まで降りて、ベンチに陣取る。

私は、モスリムの部屋で、寝る予定である。

スタッフの野中は、遠慮するというので、一人で、大切なバッグのみを持って、三階のモスリムの部屋に入った。

一人の男が、寝ている。

私も、反対側で、寝た。

 

一度目覚めて、二度目に目覚めた時、四時を過ぎていたので、一階に降りて、ベンチに寝ている、野中を起こして、搭乗手続きをするため、四階に上がる。

 

モスリムの部屋は、以前から気づいていたが、その部屋に入るということは、勇気がいた。それは、イスラム教徒に対する、ある種の偏見でもあった。

私は、その偏見を、その部屋に入ることで、取り去ることが、出来た。

払拭という言葉でもいい。

 

イスラム教徒も、同じ人間であるという、当たり前のことである。

温和なイスラム教徒の若者が、テロリストを目指すこともある。それは、教えである。教えられる。そして、教える者は、危険なことはしない。

 

ここに、私は、非常なストレスを感じる。

ジャワ島から、北大に留学していた、インドネシアのイスラム教徒の、学生と、親しくしていたことがあり、彼は、ごく普通の、若者だった。

ただ、食事の時には、酒と、豚肉を食べないという程度。

 

ただし、イスラム教徒が、集うと、時に、戦闘的に、異教徒に対して、攻撃的になるのである。それは、教えである。

 

特に、一神教が、集うと、そのようになる。

日本のアホな、宗教家たちが、宗教を超えて、云々というが、全く、宗教というものを、知らないといえる。

それは、日本に、欧米型の宗教が無いからである。

 

未だに、日本の宗教観と、欧米の宗教観は、乖離して、甚だしい。

 

最期のところに行くと、彼らと、会話することは、出来ない。

教義として、異教徒というものが、存在するのである。

そして、異教徒は、自分たちと、同じ価値ある人間ではないのである。

 

日本の一部の、キリスト教徒を見ても、そのようである。

 

それを、民族と、絡めると、益々、複雑になり、会話は、成り立たない。

宗教を超えることは、出来ない、出来るとすれば、人間の理性と、知性、そして、感性を、主とする、教育のみである。

 

ブッシュは、イラク戦争の際に、中世の十字軍を取り上げた。

あの程度が、アメリカ大統領である。

中世の宗教史観から、抜けていないということが、明確に、解ったのである。

驚くべき、蒙昧である。

そして、宗教は、その驚くべき蒙昧を、続けても、いいと、教える。

 

個人的な、信仰というものに、何の問題も見出さないが、宗教団体、集団としての行為となる時、それは、止められない、暴走を起こすのである。

 

私は、宗教的情操というものを、人間の一つの、情緒として、理解する。

 

それは、犯しては、いけない。日本では、信教の自由が認められてある。実に、理想的なことだ。

権力が、宗教を持って、民に対処するのは、実に危険極まるものになる。

 

バリ島を省く、インドネシアでは、イスラム教の、強化が激しくなっている。

古い教義に戻るために、新たに、それぞれの地域で、戒律を厳しくするというのである。

テロリストも、インドネシアからの、若者が多くなっている。

教えられるからである。

 

世界的な啓蒙運動が、必要である。

新しい時代を生きる、グローバル化した世界に生きることは、人間の、知性と、理性を取り戻すこと。

 

更に、

伝統と、伝承を保持しつつ、神仏が妄想であることを、説く事である。

 

自分の信じている、神や仏は、我一人のものであり、それを、人に説くことは、無用であることを、説くことである。

 

信仰は、極めて個人的な、情緒である。それを、犯すことは、出来ない。しかし、それを、他に強制、強要することは、出来ない。

 

世界的宗教家である、釈迦仏陀は、人は行為によって、成る者に成るという。

何を言うのかではなく、行為によってでなければ、この世での、意志決定にならないのである。

 

無事に成田に、到着して、私は、また、次の計画と予定を、立てる。

国内慰霊と、支援を開始するのである。