天山旅日記
ベトムへ
平成20
10月
 

第8話

ホーチミンの市内を、歩いて驚くことは、交通状態である。

バイク軍団が、凄まじい。

信号が少なく、道路を、横断するに、決死の覚悟がいる。

 

バイク軍団と、車の様子を見て、向こう側に渡るのだが、走っている中に、身を置いて、歩くという、危険極まりない、横断である。

しかし、それも、次第に慣れてくると、スリル満点になる。

 

市民は、慣れているのか、平然として、車とバイクの走る道を横断する。

年寄りは、両手を上げて、渡る人もいる。

 

そして、ホーチミンの道路は、サーカスを見ているような、状況なのである。

何せ、一台のバイクに、家族全員が乗っていたり、大きな荷物を積んで、奥さんとおぼしき人が、後ろ向きに、その荷物を落とさないように、抱いている、という。

 

道路に面した、店先で、じっと、その様を見ていても、飽きないのである。

 

そんな中、シクロという、自転車のタクシーがある。

また、自転車で、手漕ぎのものを、始めて見た。

 

更に、屋台を横につけて走るバイクもある。

日本の法律では、違反だらけの、状態。

 

一時間も、歩くと、緊張感で、疲れる。

衣服を担いで、街中を歩き、時々、オープンカフェで、ココナッツジュースを飲んで休む。

浴衣などは、汗だくで、背中に、生地が、ぴったりと、くっついてしまう。

 

トイレは、タイと同じであるが、時に、驚くべきトイレがあったりする。

普通のホテル、レストランなどは、まだ、ペーパーも用意されているが、そんなものが、一切無いトイレもある。

要するに、大便は、水洗いである。

お蔭で、私は、その必要がなかったが、ペーパーを持参しても、流しては、いけないトイレもある。

手動の水洗トイレである。

 

泊まっていたホテルも、紙は、流さず、横にある、ゴミ箱に入れるタイプだった。

一度、無意識に、紙を落として、同行の野中に、怒られた。

しかし、尻を拭いた紙を、横の箱に入れるというのは、抵抗がある。

 

所違えば、常識も違うのである。

 

屋台のおばさんたちは、実に、親切で、持ち物に関して、よく注意された。

要するに、引っ手繰られるので、持ち物は、体から離してはいけないということ。

カメラなどは、首から下げるように言われる。

 

屋台で、物を食べている時も、荷物は、手から離さないようにする。

私は、そんなことはなかったが、ベトナム人が、ベトナム人に、引っ手繰られることも、多々あるという。

 

道路を歩く時は、荷物は、車道の方に持たないなど、色々と、気を使った。

それは、日本も、同じである。

いつ、どんな、不運があるか、解らないのである。

 

だから、無事であることは、実に、幸せなことである。

 

さて、ベトナム人は、笑わない。

特に、戦争体験者の年代は、笑わないのである。

いつも、厳しい顔付きをしている。

しかし、仁義というものがある。

 

こんな体験をした。

靴磨きの、少年が来た。しかし、私は、下駄を履いている。ところが、少年は、中々、去らないのである。

年は、18という。

色々、お互いに、だとだとしい、英語で会話していた。

 

靴磨きは、二万ドンである。

話をしていると、情が出て、肩を揉むことが出来るかと、尋くと、出来るというので、それじゃあ、肩を揉んでもらうことにした。

 

暫く、肩を揉んでもらうと、本物の肩マッサージが、やって来て、売り込むのである。

しかし、私は、断った。

少年に、二万ドンを渡そうとした。

二万ドンを出すと、横にいた、マッサージ師が、二万ドンでは、足りない、二十万ドンだと、言うのである。

 

いかにも、ボッタくりである。

何故、少年の貰う金に、注文をつけるのか。後で知るが、その分け前を貰うのである。

 

私が、二万ドンで、と少年に言っていると、横にいた、相当年配の男性が、一言、何か言った。すると、マッサージ師は、すごすごと、退散した。

 

様子では、止めろと、言った雰囲気だ。

ボルなとでも言ったのか。

 

戦争体験者の年齢である。

泊まっていたホテルの、オーナーも、そうだった。

挨拶しても、決して笑わない。

いつも、苦虫を潰したような、顔付きをしていた。

しかし、不機嫌なのではない。

そのように、なってしまったのだ。

 

笑えない、人生を送ってきたのである。

 

ベトナム戦争体験者である。

 

戦争の後遺症を見渡すと、戦争は、未だに終わっていないというのが、現状である。

アメリカ軍が使用した、枯葉剤の影響は、今も、脈々と続いている。

これについて、書くことは、一冊の本になってしまう程、今も、その被害に苦しむ、多くの人がいる。

 

日本の原爆症に似る。

 

それを、見れば、アメリカが、キリスト教の国だとは、到底考えられないのである。

原爆や、枯葉剤を用いることが、出来る国であるということ。

これを、忘れてはならない。

 

更に、七十代から、九十代の、身寄りの無い高齢者が、30万人いると、言われる。

戦争によって、配偶者、子供たちが、死んでしまったのである。

その高齢者も、戦争犠牲者である。

 

更に、その人々の政府の対応も、戦争の後遺症があり、南ベトナム政府であった、南ベトナム解放民族戦線であった、北ベトナム側にいたかで、大きく違う。

 

ベトナム戦争とは、世界の人が認識する言葉であり、ベトナムでは、坑米救国戦争である。

そのもの、ズハリ、アメリカから、国を救う戦争である。

 

ベトナム戦争の定義は、人により、多少の違いがある。

 

広く定義する人は、1954年から1975年とする。

フランスが大敗して、ジュネーブ協定により、ベトナムから撤退する1954年を起点とする。

 

アメリカが、フランスに次いで、戦争を継続したと、考える。

そして、最後のアメリカ人が、サイゴン陥落により、ヘリコプターで、脱出する、1975年4月30日を、終わりとする。

 

フランスとの、戦いを、第一次インドシナ戦争とし、そして、次のアメリカとの、戦いを、第二次インドシナ戦争とする。その戦争をベトナム戦争という人もいる。

 

もう一つの、見方は、1960年、アメリカが、軍事顧問団を派遣して、実質的に、戦争への関与を始めた年から、73年とする。

 

南と北の、内戦の場に、アメリカが、介入してきた時期のみを、ベトナム戦争と定義するものである。

 

いずれにせよ、63年から、72年までの、10年間、アメリカ軍が、軍事行動を起こしたのである。

 

アメリカ軍の最大の介入時期は、68年で、その時は、50万人の兵士が、投入された。

 

そして、アリと象の戦いになる。

 

戦争は、膨大な数の犠牲者と、国土が荒廃する。

北の民族戦線側が、勝利して、国際社会が、ベトナムと、認定したのである。

 

しかし、ベトナムの不幸は、続く。

 

その後の、カンボジアとの、戦いである。

 

その意味付けは難しい。

ベトナム人は、カンボジアでの、ポル・ポト派による、人民の虐殺を止めるための、ヒューマニズムに基ずく行動であるとの、認識がある。

 

それは、国境地帯に住むベトナム人の、農民も、巻き込まれて、多数殺された事実もあるからだ。

ポル・ポト派は、何百万という人の命を、奪った。

残虐極まりない、その様である。

共産主義という、名の元に、殺戮の限りを尽くした。

 

ナチスドイツの、残虐を言うならば、共産主義という、名において、どれ程の、人の命が、無意味に、虐殺されたことか。

 

だが、国際社会は、ベトナムの行為を、カンボジア侵攻と、認定した。

 

これは、私の感情論であるが、それならば、あの、悪魔のポル・ポトの行為を、世界は、ただ、黙って見ていたということになる。

もし、時代が違えば、国連主導で、多国籍軍を派遣していたのではないか。

 

しかし、歴史を見ると、ベトナムは、カンボジア侵攻によって、11年間、国際的孤立を招き、経済は、疲弊した。

 

「この国際社会という中には、中国の意図と観点が大きく影響している。中国が「ヴェトナムを懲罰する」と称して中越戦争を起こした理由として、カンボジアへのヴェトナム群の進出を「侵攻」と認定しなければならなかった。中越戦争は中国のイニシアティブと米国の承認のもとに、ヴェトナムを叩くための戦争だった。大国の横暴という非難を避けるための自己正当化の理由として、ヴェトナムの行動は断じて「侵攻」でなければならなかった。だが、中国サイドの解釈を許すような傲慢さが、ヴェトナム戦争に勝利した当時のヴェトナム共産党指導部にあったと思う」

と、ヴェトナム新時代の著者、坪井善明さんの記述である。