木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第1話

この旅を、どのような形で、書き始めるかと、考えた。

色々な、切り口がある。

そして、その切り口が、多い。

 

兎に角、驚きであり、見なければ理解出来なかったこと、多々ある。

すべては、現場で起こっていることなのである。

 

三日目の朝、ようやく、ホテルの電話から、実家に連絡できた。

ホテルの部屋の電話ではない。大型高級ホテルでなければ、部屋から、国際電話など、かけられない。

ゲストハウスの電話からである。

 

そこで、母から、妹が、逝ったと、聞かされて、絶句した。

覚悟は、していたことだが、昨夜、11:30分に亡くなったという。

 

私は、妹の見舞いに、12月と、1月に出掛けている。

今まで、冬の時期に、出掛けることはなかった。

14年振りのことである。

 

妹を手当てしながら、妹は、よく来てくれたよねー、と何度も言った。

早く、体力を回復して、免疫療法を受けると、言っていた。

札幌の、病院なら、来て貰っても、いいねーと、言っていた。

しかし、妹は、確実に、一月中には亡くなることが、解っていた。

 

肝臓癌は、骨にも、胃にも、肺にも、転移していた。

お腹は、膨らんでいた。

 

その、夫と、私と、弟だけが、それを、知っていた。

 

旅の計画では、明日、四日目で、レイテ島に渡るはずだった。

 

その前に見た、マニラのスラム、街中の路上生活の人々、そして、妹の死によって、私の気力は、甚だしく落ちた。

 

最初のゲストハウスから次の、ゲストハウスに移る前に、同行のコータと、大喧嘩をして、部屋を別々にしていた。

 

同行のコータは、私より、感受性が強い。

それゆえ、衝突することも多い。

ただし、嫌いな人ならば、許せないと思うことも、好きな相手だと、許せる。これは、当たり前である。

 

冷静に考えて、悪かったと思う方が、謝って、終わる。

今回は、コータが、謝った。

 

まだ、寝ているコータの部屋に入り、持ち物を取り出して、私は、妹を偲ぶ歌を、

延々と書き続けた。

 

妹との、最後の会話は、

万が一のことを考えて来たんだ。フィリピンに出掛けている間に、アンタが死ぬかもしれないし、私が死ぬかもしれないし。

もし、あんたが、死んだら、兎に角、真っ直ぐに行きなさいよ。

光に向かって、真っ直ぐに行けばいいんだ。

そして、向こうに、落ち着いて、皆を守れば、いいんだから。

迷ったら、守れないからねー。

 

妹は、うん、とうさんも、迎えに来るべさ、と言った。

 

その、父は、何度か、妹のところに、来ていた。

勿論、肉体はないから、気である。

気を霊と、言ってもいい。

 

成人式の、翌日の夜に、亡くなった。

息子と、自分の着た振袖を着た、姪の成人した姿を見て、大そう喜んだと言う。

はじめて、自分の息子を、こんなに立派になったと、誉めたという。

 

女として、妻として、母親として、妹も、成長し、そして、亡くなった。

正式には、崩、かむあがり、したのである。

 

病室の窓から入る太陽の光に、手を合わせて、私は、何かに祈りたくなったら、太陽を拝めばいいんだと言った。

 

私の、手当てを、気持いい、気持いいと、感激していたので、これは、すべて、太陽からの、光だと、言った。

この光で、生きているし、死後も、この光に、照らされる。

 

天照る光だと、私は、はじめて、妹に教えた。

 

死に近づいて、素直な妹を、善しと、思った。

 

ちなみに、私の、手当ては、治す手当てではない。相手の、治癒力を引き出す手当てである。

 

臓器が、癌に、侵されて自然に、命尽きると、思われた。時間の問題である。

妹は、札幌から、三時間のバスに乗らなければならない、田舎町に、私が来ることを、済まない、済まないと、何度も言った。

日帰りすると、六時間、乗ることになる。

大変な、疲れを感じる。

 

兄ちゃん、もう、来なくて、いいからねー

札幌の病院に行ったら、来て頂戴

 

それが、最後の別れだった。

 

マニラのゲストハウスの部屋で、バスタオルを口に当てて、泣いた。

 

悲しくて

切なくてなお

妹を

泣きながら呼ぶ

我はあはれか

 

母よりも

我よりもまた

先に逝く

妹あはれ

あはれやあはれ

 

異国にて

愛しき妹を かなしきいもを

弔うは

縁のゆえの えにしのゆえの

慟哭にあり

 

喪失の

思いは天に

マニラの空

妹の思い

満ち満ちてあり

 

妹よ

我は泣くなり

人の世の

儚きことの

夢の如くに

 

妹の

弔いをする

マニラにて

貧しき人を

拝み奉らん

 

レイテ島行きを、中止した。

そして、マニラにての、追悼慰霊と、支援活動を決定した。

 

予定変更は、今までの旅では、なかったことである。

更に、マニラという街の、有り様も、今までになかった。

 

フィリピンの歴史を鑑みて、更に、その政治を見て、人々の、性質を見て、現状を見て、お化け屋敷のような、街の様子を、克明に記すことだと、思う。

 

一時的に、私達は、マニラに、自縛させられたのである。