木村天山旅日記

  ヤンゴンへ
  
平成21年3月 

 

第1話

三月一日、バンコクへ出発する。

到着は、深夜である。そして、ヤンゴンへは、翌朝の便で、行く。

だから、バンコク、スワナプーム空港で、時間待ちをすることになる。

 

到着して、そのまま、一階に降りて、勝手知ったる空港の、従業員で溢れる、食堂に行く。

私達は、いつもの場所と、呼んでいる。

 

数え切れないほど、この空港を利用している。また、更に、これからも、利用する。

 

食事をして、一階のベンチに、荷物のカートを横付けにして、休憩である。

 

私は、ムスリムの祈りの部屋で、休もうと思った。

そして、向かった。

その扉の、看板を見て、驚いた。

ノーと、英語で、書かれた文字を、しばし眺める。

 

食べるな、飲むな、寝るななどと、注意書きがあるのだ。

エーッ、私のエッセイを誰か、読んでいるのと、アホなことを、考えた。

まさか、空港の人が、私のブログを読むはずが無い。ということは、私のように、眠るために、入る人が多々いるということか。

 

コータと、協議した。

どうしたら、いいのかと。

コータは、もう一切、入らないという。つまり、それは、居心地が悪いそうである。

他人の部屋に、入る気分がするというのだ。

 

そこで、コータの、アイディアである。

祈りの姿勢で、寝たら、どうかと。

 

そこで、ベンチで、祈りの姿勢をして、試してみた。

正座して、両手を合わせて、額を床につける祈り方。しかし、それは、足が痺れて、長くは、続かない。

では、次の方法は、胡坐で座り、手を合わせて、額をつけて眠るという姿勢。しかし、腹がつかえて、苦しい、駄目だ。

すると、コータが、五体投地の、うつ伏せにして、手を合わせて寝るのは、どうかと、提案する。

しかし、それも、寝込んでしまうと、だらーんとして、見た目が、悪い。

つまり、ムスリムの部屋では、寝られないということを、理解したのである。

 

そうなったら、しょうがない。

ベンチにいるしかない。

 

ただ、苦痛はなかった。それは、ミャンマー・ヤンゴンに行くという、緊張感からである。

事前の調査で、ボランティア活動は、ミャンマー政府の嫌う行為であると、知っていた。それでは、どのように、支援物資を渡すのか。

観光ですと、言いつつ、サッと、渡して、サッと、立ち去るとこだと、心に決めていた。

 

実に、この旅日記を、書くのは、難しい。

どのくらい、ミャンマー・ヤンゴンのことが、正しく、見たまま書けるのかということだ。それは、複雑で、幾重にも重なるような、意味があるから、一面的ではない。

 

一つの事象を語るのに、色々な面から、書かなければ、理解出来ないのである。

それ程、ミャンマーという国は、複雑であり、大変な国である。

 

ミャンマー入国の、ビザも、自分達で、取るのではなく、地元の旅行会社を通して、取ることにしたのも、その一つである。

自分達で、取れば、その代金の、半額で、良かったが、ヤンゴンの旅行会社から取ると、手続きまでやってくれる。ちなみに、二人で、110ドルである。

 

私達の、支援物資に、難癖をつけられないためにも、それは、正解だった。

 

さて、搭乗手続きが、朝の六時前から、始まった。

隣の国でも、出国である。

 

出国手続きを済ませて、搭乗口に向かう。

 

国際線乗り場である。

タイの、格安航空会社の、更に、キャンペーンチケットを、買っていた。

 

待合室で、搭乗を待つ。

その時、私は、一人の僧侶に逢った。

というか、目で挨拶をした。向こうも、笑顔で、答えた。

それが、ヤンゴンへの、旅の始まりである。

 

搭乗が、始まった。

バスに乗り、飛行機の待機している場所に向かう。

バスは、人で、一杯。

飛行機の側に、バスが着いた。

ところが、扉が開かない。なかなか、開かない。

そして、扉が開かないままに、バスは、また発車した。

どういうこと。

 

バスは、また、元の乗り場に戻ったのだ。

そこで、扉が開いた。降りれということかと、皆、バスを降りる。そして、また、待合室に戻った。

そこで、初めて、説明である。

 

ヤンゴン空港から、30分待てとの、指示である。

 

その理由は、空模様が悪いから、である。

変なの、と、思いつつ、また、待合室のベンチに座る。

ついでに、トイレに立った。

そして、トイレから出て、先ほどの、僧侶と、目が合い、何となく、声を掛けた。

それが、事のはじまり。

 

若い僧侶は、英語である。

ところが、実に、聞き取りにくいのである。

訛りのある、英語というのか。

 

ついに、コータを呼んだ。

そして、三人で、話すことになった。

 

若い僧侶は、三十過ぎであろうか。

精悍な顔付きで、知的な雰囲気である。

 

そこでは、ヤンゴンを案内するということで、話が、まとまった。

私達のホテルに、夕方の六時に来るというのである。

断る理由なく、では、お待ちしていますと、答えた。

 

しばらくすると、アナウンスが流れた。もう一度バスに乗れという。

漸く、出発かと、皆の後について歩いた。

 

無事、離陸して、一時間と少しで、ヤンゴンに到着。

そこまでは、何事もなく、である。

 

それから、三泊三日、心身ともに、疲労困憊するなどとは、知らないのである。

 

ビザの手配を頼んでいた、会社の女性社員が、すべての、手続きを代行してやってくれた。

荷物も、コータのバッグを、開けられただけ。

ただし、そこに入れていた、女物の靴、支援物資であるが、それを見た、検査官が、ゥアーと、声を上げた。

 

女物の、靴を、どうするのか、これを、履くのかという、感嘆の声。

コータが、プレゼントですと、言い、何事もなかったのかように、通り抜けた。

 

旅行会社の車で、予約していた、安い料金のホテルに向かった。