木村天山旅日記 

  チェンマイへ

  平成21年10月 

第2話

今回の、チェンマイでの予定は、毎日である。

 

まず、初日、つまり、到着日の翌日は、追悼慰霊である。

今回は、慧燈財団が、建てた、慰霊碑に伺い、そして、タイ・ビルマ戦線に従軍した、元兵士である、藤田松吉さんが、戦友のために建てた、慰霊碑である。

 

藤田さんは、約、8000名の兵士の遺骨を、集めた。

本にも書かれ、映画にも、登場する人である。

 

財団の慰霊碑には、私とスタッフは、三度目である。

 

700名の遺骨が、投げ入れられた、井戸の上に建つ慰霊碑と、12000名の、周囲で亡くなった兵士の、慰霊塔があり、更に、慰霊の梵鐘がある。

 

運転手付きの、車をチャーターし、小西さんと共に、総勢5名で、追悼慰霊の儀を、執り行う。

 

まず、何より、慰霊が優先である。

テラの会の、主体は、追悼慰霊である。

 

バカート高校の敷地にある、慰霊碑に到着し、即座に、慰霊の儀を、執り行う。

 

近くの、木の枝を、御幣にし、神呼び、カムヨビを、行う。

 

皇祖皇宗の天照る神、天津神、国津神、八百万の神、チェンマイの地の神、そして、今回は、昭和天皇を、お呼び奉る。

 

天照る神は、太陽に象徴されるゆえ、太陽に向かい、カムヨビを行う。

 

当日の気温は、35度である。

暑い。

 

汗ばみつつ、カムヨビを行い、おお祓えの祝詞を唱える。

 

実は、その前に、初めてこの地に来た、辻さんと、千葉君に、井戸の中を、見せた。

その中に、遺骨が沈み、今は、その姿は無い。

静かに、水面が、みえるのみ。

 

音霊、おとたま、による、清め祓いの、祝詞である。

 

そこには、多くの方々が、訪れ、更に、年に一度、そこでは、お祭りをする。よって、実に、清々として、地場は、安らかである。

 

昔、その辺りには、日本兵の幽霊が出ると、言われて、その付近の人々は、近づかなかったという。

しかし、今は、そんなことはない。

 

桜を植樹した団体によって、桜の枝が、育っていた。

毎日、手入れされて、敷地は、整然としている。

 

祝詞を終えて、四方を清め祓う。

それは、つまり、想念の祓いである。清めである。

 

祈り

いのり、とは、意を宣る、のである。

いのる、と、なる。

 

たいらけく やすらけく

 

生きている人であれば、お疲れ様でした。ご苦労様でした。

ゆっくりと、お休みください。

そして、ありがとうございました。である。

 

戦争という、不可抗力の中で、生きなければならなかった、皆様の思い、いかばかりか・・・

 

インド・インパールから、ビルマの山を越えて、タイへ逃れた兵士たち。

その多くは、病に倒れ、飢餓に倒れ、極度の疲労に倒れた。

 

壮絶な、行脚である。

 

戦争とは、戦って死ぬことだけではない。

 

ニューギニアなどの、死亡は、大半が、餓死である。

戦いに出て、餓死や、病死というのは、実に、あはれ、なことである。

 

勿論、インドネシア・ビアク島のように、洞窟に立て籠もって、火炎放射器と、火責めで、殺されたという、悲惨に死もある。

いずれにせよ、戦争時の、死は、実に、惨いものである。

 

死んでも、死に切れないという、心の状態は、察して余りある。

 

さて、私たちは、小西さんの説明を伺い、12000名の、追悼碑の前でも、黙祷した。

更に、戦死者を慰める、梵鐘に上がり、それぞれが、黙祷しつつ、鐘を突いた。

 

この話は、遥かなる慰霊の旅、という、旅日記にも、詳しく書いている。

 

さて、次の目的地に向かった。

 

チェンマイ市内から、バンカート高校まで、一時間弱であり、次の藤田さんの建てた、慰霊碑までは、また、一時間以上かかる。

 

太陽が、天にあるうちにと、先を急いだ。

 

簡単に、藤田さんの慰霊碑のことを、説明する。

 

実は、藤田さんは、カトリック信者である。長崎の出身。

だが、昨年の暮れに亡くなった時、誰も、カトリックの方がいず、仏式で、葬儀を行ったと、聞いた。

 

藤田さんが、戦友の遺骨を収集し始めて、暫くして、毎晩夢を見るようになる。

戦友が出てくるのである。

そこで、藤田さんは、出てくる戦友たちに、俺は、キリスト教徒だから、クリスマスの日に、ご馳走と、酒を用意して、皆を、歓迎すると、言った。

その夜から、戦友たちが、出なくなったという。

 

それから、毎年の、クリスマスに、ご馳走を用意し、酒を戦友と、飲み交わしたという。

 

それを、聞きつけたチェンマイの人も、クリスマスに集うようになり、慰霊会のようになったという。

 

藤田さんの、慰霊碑は、道なりにあった。

一人で、立派なものを、建てられた。

 

そこでは、まず、カムヨビをして、周囲を、清め祓い、私は、まず、昨年の暮れに亡くなった、藤田さんの慰霊を、行った。

 

カトリックであるから、私は、キリエレイソン、主よ憐れみたまえ、を、唱え、歌った。そして、主の祈りである。

 

藤田さんの、慰霊を終えてから、その慰霊碑に、奉られた皆様の、追悼慰霊の儀を、執り行った。

 

おお祓えの祝詞を唱えた。

そして、皆様を、行くべきところへ、お送りする、音霊による、お送りの、音である。

 

更に、その周辺の地を、祓う。

 

実は、後で、その地について、重大なことが、解るのである。

 

そして、辻さんに、最後に、ピエイエスを歌ってもらった。

辻さんは、教会音楽の、合唱をしていたので、それは、得意分野である。

 

私は、近くに流れる、小川に、御幣を、流した。

その、小川が、実は、とても、その地の大切な場所だったのだ。

 

それを、知るために、大きな犠牲が、必要だった。