11月7日、朝八時に、私はホテルのテラスでコーヒーを飲み、食事をした。
矢張り、サンドイッチである。
本日は、特別な日だった。
いよいよ、目的の慰霊をする。
チェンマイ県バンカート村の、バンカート中高学校敷地内のある、タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼の碑に出向いての、慰霊の行為である。
古神道にのっとり、慰霊を行う。
昭和19年、1944年は、敗戦の前の年である。
その二月、牟田口廉也率いる、第15軍が、イギリス軍のビルマ反攻作戦を阻止し、更に、インド国内の反英運動を高揚させるために、アッサム州の州都インパールの占領を目的とした、インパール作戦を計画する。
この作戦は、補給上無理があるとした、考えがあったが、牟田口軍司令官は、作戦を強行した。
第15軍の3個師団が、インド領内に進攻し、アラカン山脈を突破して、インパールに向かうのである。
最初、作戦は、順調に進展した。
四月上旬、インパールの包囲が整えられた。
しかし、空中補給によって、兵力を増強したイギリス軍が、反撃に出る。
補給線上を突かれた日本軍は、武器、弾薬、食料などの補給が届かず、総崩れとなって、退却する。
山岳地帯の退却は、食料、医薬品の不足によって、多くの餓死者、病死者を出す。
この地方が雨期に入っていたこともあり、陰惨を極めたものになった。
退却する兵士の中には、疲労と、衰弱により、自殺する者もいた。
衰弱して回復する見込みの無い者には、手榴弾が渡され、自決を促された。
七月に、作戦は中止されるが、この無謀な作戦の結果、多大な犠牲を出す。
参加人員約10万名のうち、3万の兵士が戦死し、2万の兵士が、戦病死ししたのである。
この失敗によって、ビルマ戦線の崩壊が、決定的になった。
時を同じくして、太平洋戦線で、アメリカからの攻撃を受けて、瀕死の状態になっている。
今は、この作戦の事実だけを、言うのみ。
その後、日本兵の生き残りは、タイ・メーホンソン県から、チェンマイ県の道を通り、撤退するのである。
多くの兵士は、この道の途中で、亡くなった。
遺骨、遺品は、撤退する道に捨てられたのである。
当時、撤退する日本兵に、温かく接したのが、タイの人々である。
食事を与え、負傷した者、マラリアにかかった者を、手当てした。
日本兵も、そこで、タイ人の村の農作業等を手伝い、交流を深めた。
実は、この作戦で亡くなったのは、日本兵だけではない。
当時、一般の中国人を、運搬作業のため引き連れたのである。彼らも、多く亡くなっている。その数は、日本兵より、多いと推測される。また、タイ人も、犠牲になっているのである。
北部タイの、国境付近には、中国人の死者を追悼慰霊する、碑もある。
さて、今回、私が行く、バンカート学校内の慰霊碑である。
平成元年である。
佐賀県の僧侶と、遺族が、カンボジア難民慰問の帰り道、チェンマイ県を訪れた。
それが、始まりである。
その時、出会ったタイの僧侶の言葉が、一行の心を打った。
ここには、まだ多くの日本兵が眠っている。
あなたたちは、それを省みることもない。
そんなあなたたちは、日本人は、人間といえるのか。
それは、衝撃的だった。
一行の中に、何と、その生き残りの人がいたのである。
そして、語り出した。
最初は遺体に土をかけて通った。
次には、遺体をまたいで、通った。
最後は、遺体を踏み越えて、通った。
この事が、きっかけとなり、僧侶と、遺族によって、慧燈財団が設立され、この地に眠る、日本兵の遺骨収集が、始まったのである。
平成5年に、財団は、バンカート・ウィタヤーコム校の敷地を借りて、サンカヨーム寺の、古井戸に埋葬された日本兵の追悼の碑を、古井戸の上に建てた。
更に、遺骨の見つからない、一万八千名の日本兵、軍属、関係者の遺骨を集めて追悼慰霊し、平成13年には、敷地内に、昭和天皇御製の刻まれた、大梵鐘を建てて、遺骨の見つからない人々を追悼慰霊する。
私は、そこに行くのである。
何故、行くのか。
私にも、よく解らない。
もう、20年以上も前のことである。
私のお客さんに、サイパンに通訳の仕事で、よく通う女性がいた。
仕事から帰ると、相談に来るというか、報告と、清め祓いに来た。
今回は、将校の霊でした。
あっ、そう。
そんな、やり取りである。
要するに、サイパンに行くと、兵士の霊、軍人の霊と関わり、体調が悪くなるのである。それで、私の元に来た。
私の、慰霊への、伏線である。
いつか、行くべきだと思いつつ、年月を過ごした。
そして、昨年、思いついたように、慰霊をすべきだと、心に命ずるのである。
それは、即座に行った。
バリ島から戻り、すぐに、サイパン行きを決めた。
バリ島での、日本セミナー開講を計画していたのに、慰霊の行為が、加えられた。
やらなければ、ならないという、ただ、一心である。
その他の、理由が無い。ただ、心の命ずるままに、行動するのみ。
それと、共に、私は、太平洋戦争のことを、調べ始めた。
歴史的事実と、様々な考え方である。
慰霊は、それに、確信を与え、戦争を追体験することになった。
そして、未だに捨て置かれる、多くの日本兵の遺骨である。
信じられない思いだった。
話を聞けば、親兄弟を戦争で失った人が、空の骨箱が来ただけであり、そこには、石が入っていた等の、話である。
こうしては、いられない。
オーストラリア・ダーウィンの、日本軍に攻撃を受けて、市民が400名程亡くなったという場所にも、慰霊に行く意義を見出した。
更に、ミクロネシア連邦の、トラック諸島に沈む、艦船43隻、民間船200隻の、慰霊。
そして、ラバウル、ガダルカナル、ニューギニアである。
まだまだ、ある。
そんな時に、トラック諸島の海底の遺骨が、見世物にされているという、記事を見て、その意を強くした。
霊的存在には、場所は、関係無い。どこでも、追悼慰霊の行為は、できる。しかし、その場所に出掛けるということに、意味があり、その行為も、慰霊の行為になると、直感したのである。
行こうとする心だけでも、追悼慰霊の行為になるとは、初めての体験である。
それ程、戦死者は、悲惨な思いをしたのである。
特攻のみならず、戦争に行くということは、死を意味した。
すべての兵士は、死を受け入れざるを得ない状態に置かれて、辛吟したはずである。
戦争という、不可抗力を受け入れる、彼らの心に、私は、深く打たれた。ここにこうして、平和を享受する私に出来ることは、追悼慰霊の行為であると、確信した。
敗戦から60年を過ぎて、忘れ去られる歴史と、兵士の死の重さを、私は、体験したいと思った。それは、また、祈りであり、歴史を、私のものにするための、行為でもあった。
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