木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第九話

 

11月7日、朝八時に、私はホテルのテラスでコーヒーを飲み、食事をした。

矢張り、サンドイッチである。

 

本日は、特別な日だった。

いよいよ、目的の慰霊をする。

 

チェンマイ県バンカート村の、バンカート中高学校敷地内のある、タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼の碑に出向いての、慰霊の行為である。

 

古神道にのっとり、慰霊を行う。

 

昭和19年、1944年は、敗戦の前の年である。

その二月、牟田口廉也率いる、第15軍が、イギリス軍のビルマ反攻作戦を阻止し、更に、インド国内の反英運動を高揚させるために、アッサム州の州都インパールの占領を目的とした、インパール作戦を計画する。

 

この作戦は、補給上無理があるとした、考えがあったが、牟田口軍司令官は、作戦を強行した。

第15軍の3個師団が、インド領内に進攻し、アラカン山脈を突破して、インパールに向かうのである。

 

最初、作戦は、順調に進展した。

四月上旬、インパールの包囲が整えられた。

しかし、空中補給によって、兵力を増強したイギリス軍が、反撃に出る。

 

補給線上を突かれた日本軍は、武器、弾薬、食料などの補給が届かず、総崩れとなって、退却する。

山岳地帯の退却は、食料、医薬品の不足によって、多くの餓死者、病死者を出す。

この地方が雨期に入っていたこともあり、陰惨を極めたものになった。

 

退却する兵士の中には、疲労と、衰弱により、自殺する者もいた。

衰弱して回復する見込みの無い者には、手榴弾が渡され、自決を促された。

 

七月に、作戦は中止されるが、この無謀な作戦の結果、多大な犠牲を出す。

参加人員約10万名のうち、3万の兵士が戦死し、2万の兵士が、戦病死ししたのである。

 

この失敗によって、ビルマ戦線の崩壊が、決定的になった。

時を同じくして、太平洋戦線で、アメリカからの攻撃を受けて、瀕死の状態になっている。

 

今は、この作戦の事実だけを、言うのみ。

 

その後、日本兵の生き残りは、タイ・メーホンソン県から、チェンマイ県の道を通り、撤退するのである。

多くの兵士は、この道の途中で、亡くなった。

遺骨、遺品は、撤退する道に捨てられたのである。

 

当時、撤退する日本兵に、温かく接したのが、タイの人々である。

食事を与え、負傷した者、マラリアにかかった者を、手当てした。

日本兵も、そこで、タイ人の村の農作業等を手伝い、交流を深めた。

 

実は、この作戦で亡くなったのは、日本兵だけではない。

当時、一般の中国人を、運搬作業のため引き連れたのである。彼らも、多く亡くなっている。その数は、日本兵より、多いと推測される。また、タイ人も、犠牲になっているのである。

 

北部タイの、国境付近には、中国人の死者を追悼慰霊する、碑もある。

 

さて、今回、私が行く、バンカート学校内の慰霊碑である。

 

平成元年である。

佐賀県の僧侶と、遺族が、カンボジア難民慰問の帰り道、チェンマイ県を訪れた。

それが、始まりである。

 

その時、出会ったタイの僧侶の言葉が、一行の心を打った。

 

ここには、まだ多くの日本兵が眠っている。

あなたたちは、それを省みることもない。

そんなあなたたちは、日本人は、人間といえるのか。

 

それは、衝撃的だった。

一行の中に、何と、その生き残りの人がいたのである。

そして、語り出した。

 

最初は遺体に土をかけて通った。

次には、遺体をまたいで、通った。

最後は、遺体を踏み越えて、通った。

 

この事が、きっかけとなり、僧侶と、遺族によって、慧燈財団が設立され、この地に眠る、日本兵の遺骨収集が、始まったのである。

 

平成5年に、財団は、バンカート・ウィタヤーコム校の敷地を借りて、サンカヨーム寺の、古井戸に埋葬された日本兵の追悼の碑を、古井戸の上に建てた。

 

更に、遺骨の見つからない、一万八千名の日本兵、軍属、関係者の遺骨を集めて追悼慰霊し、平成13年には、敷地内に、昭和天皇御製の刻まれた、大梵鐘を建てて、遺骨の見つからない人々を追悼慰霊する。

 

私は、そこに行くのである。

 

何故、行くのか。

私にも、よく解らない。

 

もう、20年以上も前のことである。

私のお客さんに、サイパンに通訳の仕事で、よく通う女性がいた。

仕事から帰ると、相談に来るというか、報告と、清め祓いに来た。

 

今回は、将校の霊でした。

あっ、そう。

そんな、やり取りである。

要するに、サイパンに行くと、兵士の霊、軍人の霊と関わり、体調が悪くなるのである。それで、私の元に来た。

私の、慰霊への、伏線である。

 

いつか、行くべきだと思いつつ、年月を過ごした。

そして、昨年、思いついたように、慰霊をすべきだと、心に命ずるのである。

それは、即座に行った。

バリ島から戻り、すぐに、サイパン行きを決めた。

バリ島での、日本セミナー開講を計画していたのに、慰霊の行為が、加えられた。

 

やらなければ、ならないという、ただ、一心である。

その他の、理由が無い。ただ、心の命ずるままに、行動するのみ。

 

それと、共に、私は、太平洋戦争のことを、調べ始めた。

歴史的事実と、様々な考え方である。

慰霊は、それに、確信を与え、戦争を追体験することになった。

 

そして、未だに捨て置かれる、多くの日本兵の遺骨である。

信じられない思いだった。

話を聞けば、親兄弟を戦争で失った人が、空の骨箱が来ただけであり、そこには、石が入っていた等の、話である。

 

こうしては、いられない。

オーストラリア・ダーウィンの、日本軍に攻撃を受けて、市民が400名程亡くなったという場所にも、慰霊に行く意義を見出した。

更に、ミクロネシア連邦の、トラック諸島に沈む、艦船43隻、民間船200隻の、慰霊。

そして、ラバウル、ガダルカナル、ニューギニアである。

まだまだ、ある。

 

そんな時に、トラック諸島の海底の遺骨が、見世物にされているという、記事を見て、その意を強くした。

 

霊的存在には、場所は、関係無い。どこでも、追悼慰霊の行為は、できる。しかし、その場所に出掛けるということに、意味があり、その行為も、慰霊の行為になると、直感したのである。

行こうとする心だけでも、追悼慰霊の行為になるとは、初めての体験である。

それ程、戦死者は、悲惨な思いをしたのである。

特攻のみならず、戦争に行くということは、死を意味した。

すべての兵士は、死を受け入れざるを得ない状態に置かれて、辛吟したはずである。

戦争という、不可抗力を受け入れる、彼らの心に、私は、深く打たれた。ここにこうして、平和を享受する私に出来ることは、追悼慰霊の行為であると、確信した。

敗戦から60年を過ぎて、忘れ去られる歴史と、兵士の死の重さを、私は、体験したいと思った。それは、また、祈りであり、歴史を、私のものにするための、行為でもあった。