木村天山旅日記

タイ・ラオスへ 平成20年2月

第十話

野中が、戻った翌日は、帰る日の、前日である。

13日の朝、3:40に、夢を見て、目覚めた。

 

象徴夢であった。

 

再び、眠り、朝日が出てから、起きた。

 

庭に出て、コーヒーを飲もうとした。

すると、一片の白い花びらが、落ちてきた。

 

名も知らぬ 白き花あり あわれなり メコンの風に 大和の心

 

野中は、眠っている。

若い人は、よく眠る。それは、体力があるからだ。眠るのも、体力である。

年を取ると、眠られなくなる。眠る体力が無いのだ。

 

寒さが、少し薄らいでいる。

 

白い花びらが、気になり、歌を詠む。

 

風に散る 一葉よりも 軽きもの 人の命の さらに軽きよ

 

散ればこそ 芽を出すものを 人の亡き 後は戻らぬ ことぞ悲しき

 

実は、私は、しばらく、20年ほど、歌を詠むことがなかった。

母に、歌を詠むことを勧めて、その母の歌が上手になってゆくのを、楽しんでいた。

小説を書くことを、楽しんでいたが、この頃になって、歌を詠むことが、多くなった。

これは、年齢なのか。

小説を書くことは、実に、体力がいる。職業作家には、なれないと、諦めていた。勿論、作家になるほどの、小説は、書いていない。

ただ、物語を作るのが、好きなだけである。下手の横好き、というやつである。

 

野中も、起きてきた。

一緒に、コーヒーを飲む。

明日の移動を、相談する。

空港のある、ヴドーン・ターニまで、行かなければならない。そして、バンコクへ行く。

 

トゥクトゥクの、おじさんに聞いてみることにした。

朝、ゲストハウスに顔を出す、おじさんがいる。

 

暫く、二人で、英字新聞を読む。私の場合は、眺める、である。

野中が、声を上げた。

新聞の一面に出ている記事を、私に示した。

何、セックス。

いや、トイレのことだよ。

野中が言う。

ついに、レディボーイのトイレが出来たって。

あるタイの空港に、レディボーイ用のトイレが、出来たということだった。

 

つまり、男、女、そして、レディボーイの、三つのトイレができたということである。

 

レディボーイの国、タイである。

野中は、翌日、帰る前に、その記事を切り抜いて、貰っていた。

 

トゥクトゥクのおじさんが、やって来た。

帰りのバスの時間を訊く。

予約して、乗るのだという。もう、チケットは、売っているというので、私たちは、すぐに、チケットを買いに出た。

 

風を切って、トゥクトゥクが走る。

この町に、再び来ることがあるのかと、自分に問うた。何とも、解らない。

二度と来ないかもしれない。

 

この地をも 旅の一つと 名残惜し 生きること旅 と思う身にも

 

帰国する こと惜しむ身も いざ心 立ててゆく明日 今日ぞ忘れぬ

 

チケットは、すぐに買うことが出来た。

何事も、早め早めが、いい。

下手をすると、乗れないこともある、と。

ゲストハウスに戻り、そのまま、食事に出た。

 

店先で、焼いている、地元の人の食堂である。

もち米、豚肉、鶏肉、春雨サラダを注文した。丁度、春雨サラダを作っていたので、それを、注文した。

サラダは、思った以上に甘かった。

メコン河を眺めての、食事である。

 

留め置きて 国境流る メコン河 心にかけて 忘ることなし

 

異国にて 風にあわれの あるものと 生まれし国を 誇りたるかな

 

二人で食べて、満腹した。75バーツ、約240円。

地元の食堂は、安い。

明日の朝も、ここで食べることにした。それが、最後のノーン・カーイの食事になる。

 

部屋に戻り、いよいよ、帰り支度である。

何とも、過ぎてみれば、早いことである。

毎日のことを、手帳につけているが、単に、メモである。つまり、人生は、数行で、書き表せるというもの。

 

生まれて、恋をして、老いて、死んだ。

仏陀は、ここに、病を入れた。恋は、入れない。

日本人の心は、恋を抜きにしては、語れないのである。

恋とは、大和心の、種である。

 

子供服が無くなったので、荷物が、減った。

買い物も、多くしていない。というより、私は、六個の小物入れのみ。野中も、キーホルダー付きの、小物入れを、五個である。

 

旅に余計な荷物は、実に余計である。大きな、バッグをズルズルと引きずり持つ人が多い。何をそんなに、持つのかと、不思議だ。

特に、暖かい国に出掛けるならば、ほとんど、荷物は、いらない。

毎日の、着替えを持つのだろうか。一度、人のバッグを、覗いてみたい。

 

野中が、ディジュルドゥを吹くために、部屋を出た。

私は、ベッドに横になり、ゲストハウスの本棚に置かれていた、更級日記を読んだ。奇特な人がいるものである。古典の更級日記を携えて、ここまで来たのである。

これを、置いていった人を、風情があるなーと、思いつつ、読んだ。

 

物語に憧れる、女の話である。

古典の日記ものは、大和言葉であるから、大和言葉を知りたければ、古典の日記を読めばいい。

ひらがなは、女文字といわれたが、日本の文学は、女房文学から、始まった。

世界最古の小説は、源氏物語である。

日記文学から、私小説文学へと、変転する。

小説は、爛熟期を過ぎて、衰退期へ。しかし、文字の廃れることはない。

日本の場合は、和歌と俳句の廃れることはない。

芭蕉が言う、不易流行である。

 

ふっと、タイの文学を思った。実は、何一つ、それを、知らない。

現代小説ならば、翻訳物で、二三読んだ程度である。

あとは、演歌の歌詞を、少し聞いた。

この、イサーンの、演歌の歌詞は、他に無い、激しいものがある。

 

例えば、流れる涙は、地に落ちる、私の血である、とか。

 

このタイ東北部、イサーンは、大地が乾き、風が強いのである。

私も、何度か、涙を流した。悲しくてでない。乾いた大地の風で、ある。

それは、また、この東北部の歴史の歩みにもあると、思う。

 

植民地時代の、歴史の風に、揺れたのである。

支配が変わるという意識は、島国の日本人では、理解し難いものがある。

大陸である。

国境という、微妙さの中にある地域は、いつも、揺れ動いていた。

そして、民族という意識である。

到底、私の及ぶところの、ものではない。

 

シャムという、国名から、タイに変更した時に、それは、タイ族の国であるという意識である。

立憲革命により、立憲君主制になり、人民党のピブーンが首相に就いてからの、1939年六月の、国家信条にて、民族名と、国名を一致させるということで、タイとなったのだ。