天山旅日記
ベトムへ
平成20
10月
 

第2話

1954年から、1975年の十年間の、ベトナムでの、死者数は、米軍が、58000名強、ベトナム側は、300万人である。

 

名高いベトナム戦争の、犠牲者である。

 

アメリカ人が、一人死ぬと、ベトナム人が、50人死ぬのである。しかし、ベトナム人の犠牲者は、民間人も含むので、更に多いはずである。

 

ベトナム戦争の大義は、ドミノ理論であった。

つまり、南ベトナムが、共産主義の手に落ちると、タイ、インドネシア、フィリピン、日本などの、アジア諸国が、ドミノゲームのように、次々に倒される危険がある、というものである。

 

1954年、ディエンビエンフーで、フランスが大敗して、北が勝利した時、アメリカ政府は、アメリカ在住カトリック教徒の、ゴー・ディン・ジエムを担ぎ出し、北緯17度線を、軍事境界線として、ベトナム共和国を急遽設立し、ジエムを大統領に据えた。

 

そして、南と、北を、ジュネーブ協定で、分離を認めさせたのである。

 

それはまた、北の、急進を好まない、中国の考えとも、一致した。

 

一方、ホーチミンは、この戦争を、植民地から、ベトナム民族を解放する、民族解放の戦いと、意味づけた。

 

さて、この、ホーチミンとは、今のホーチミン市のことである。

つまり、人の名を冠して、名づけられた町である。

昔は、サイゴンと、言った。

サイゴン陥落とは、ベトナム戦争終結の言葉とされた。

 

私は、ホーチミンに出掛けた。

現在のベトナムを、理解する上で、ホーチミンについてを、語ることが、必至である。

 

ホーチミンは、1890年5月19日に、ゲアン省ナムダン県キムリエン社、つまり、キムリエン村で、生まれた。

本名は、グエン・シン・クンである。

 

父は、グエン・シン・サックといい、彼は、第三子である。

父のサックは、村で寺子屋の先生をしつつ、勉強を続けて、1901年に、科挙に合格する。

科挙とは、官使東洋試験である。

 

だが、サックは、フランスが祖国を植民地にしたことを、憤慨する、愛国者であった。

それゆえ、フランス保護の下にある、官使の生活に馴染むことが出来ず、結果、アルコール依存症が原因で、トラブルを起こし、失職する。

 

クンは、父親の窮状を助けるために、フランスに渡り、定期航路の雑用係りに就いて、ベトナムと、フランスを往復しつつ、父親に仕送りを続けた。

 

そして、父の愛国の精神を受け継ぎ、フランスにて、祖国の独立を要求する、運動に参加するようになる。

 

1919年、ベルサイユ講和会議にて、アメリカの、ウッドロー・ウイルソン大統領に直訴しようと、ベトナム人の祖国解放のための八項目要求、という請願書を作成した。

その時、ベトナムの代表として、ホーチミンが使用した名前が、グエン・アイ・クォックというもの。クォックとは、愛国者という意味である。

 

グエンという苗字は、ベトナムで、一番多い、苗字であり、ベトナム人の愛国者ということで、たちまち、ベトナムの人々の間に、知れ渡った。

 

そして、政治的活動をしているうちに、左化、左傾してゆくのである。

更に、フランス社会党の創設メンバーとなるが、フランス人の、植民地の惨状に対する理解の無さに、憤ることになる。

その時、レーニンの、植民地問題に関する理解ある論文を読み、急速に、共産主義に、親近感を抱くようになる。

 

更に、フランス共産党の創設に参加するということになり、その後、コミンテルンのメンバーとして、モスクワに移住するのである。

 

それから、ベトナム解放のために、本部を説得して、活動の中心を、中国に移すことになる。

 

ここで、問題は、民族解放を求める、愛国の精神が、それを、理解するという共産主義というものに、曳かれたのであり、共産主義に曳かれたのではないということである。

ここのところを、理解しないと、ホーチミンの主義を、理解出来ない。

共産主義が、主ではない。

民族解放という、愛国精神が、主体なのである。

 

色々な、研究家が、ホーチミンの思想について語るが、私は、ここのところで、明確にしておきたいと、思う。

 

方法の問題である。

主義の問題ではない。

 

自主独立、自主統治である。

それは、後でも語るが、ベトナムの今後の、民主化のために、必要なことである。

現政権である、ベトナム共産党の、共産共和国ではなく、民主共和国にならなければ、発展は無いのである。

 

1941年、ホーチミンは、30年ぶりに、祖国に戻り、祖国解放のために、指導力を発揮する。

 

1945年8月から9月にかけての、権力の真空の間に、一気に、独立を勝ち取るのである。

 

9月2日に、ベトナム民主共和国の独立を、一方的に宣言し、初代国家主席に就いた。

 

翌年、46年から始まった、第一次インドシナ戦争を指揮する。

54年、先に書いた通り、フランスに致命的な敗北を与えて、戦争に勝利する。

 

だが、大国が指導権を握る、ジュネーブ会議にて、北緯17度線を軍事境界線とされ、ホーチミンも、従わざるを得なかったのである。

 

その、カラクリは、東西冷戦が始まり、ベトナムも、その最前線の一つとなっていたからである。

 

そして、間も無く、ベトナム戦争が勃発する。

ホーチミンは、70歳を超えていたが、軍事問題では、最高指導者として、国民を鼓舞し続けた。

 

1969年9月2日に、亡くなった。

 

一旦、ホーチミンについては、置いて、おく。その思想については、実に謎に包まれているのである。

 

 

初めての、共産国に入国するという気持ちは、何とも言えないものだった。

事前に、ホーチミンには、公安や、私服警察などが、至るところにいて、見張りをしていると、聞いていた。

更に、路上では、喧嘩などしては、公安に捕まるということも。

また、観光客のための、警察も、緑の制服で、至る所にいるのである。

 

私が感じたのは、タクシーなどを頼む時も、私服警官のように人に頼むと、ボラれないで済むというものだった。

その人が、警官が否かは、確認できないが・・・

 

観光客のための、というより、それも、観光客を見張るというものと、考えて良いと思う。

 

道端で、一人の幼児を抱えて、宝くじを売る、女性に、縫ぐるみを差し上げた時、歩いていた一人の男が、俺にも、と言い、近づいてきたと、すると、至る所から、人が駆けつけて、縫ぐるみを下さいと言う。

その時、矢張り、人が集うので、公安、警察の人が、近づいて来たと、スタッフが言う。

 

すべての、縫いぐるみが無くなり、人も去って、安堵したが、集会が、禁止されているとのこと。

着物姿の日本人が、人を集めて、何をしているのか、ということになるのである。

 

ちなみに、最も、貧しい人は、宝くじや、ガム、ティッシュを売り歩く。

日本では、道端で、配られるティッシュである。

 

一度、私は、夜の食事をしてい時、物売りが、しつこくて、大声を上げて、怒った。

すると、あたり一面が、静まり返った。

皆、私を注目した。

これは、ヤバイと思った。

 

騒然とした雰囲気は、他の国では、見られないものだった。

私の、怒りまくりは、共産国では、ご法度である。

 

元々、声が大きい私だが、ホーチミンでは、怒るのを、抑えると、決めた。