木村天山旅日


 

  バリ島再考の旅
  
平成21年
  2月
 

 第4話

インドネシアは、世界一の一万数千の島々のある、国である。

その、総人口の、2億3100万人の、六割が、ジャワ島に集中している。

 

そのインドネシアの、真ん中辺りに位置するのが、バリ島である。

その歴史の、植民地時代を、抜きにして語れない。

 

オランダの船団が、最初にバリ島に訪れたのは、1597年のこと。

当時のバリ島は、ゲルゲル王朝の最盛期の時代である。

 

1602年に、オランダは、現在のジャワ島、ジャカルタのコタに、東インド会社を置いた。それから、港町を、次々に、植民地化してゆくのである。

メダン、マカッサル、マナド、アンポンなどである。

 

矢張り、バリ島も、その支配下に置かれた。

ただ、香料、熱帯産物の貿易独占に、熱を入れていたオランダにとって、バリ島は、それほど、魅力ある島ではなかった。

 

オランダの目的は、アヘン貿易の掌握と、農業、商業に対する税の徴収である。

バリ島では、この税の徴収のために、旧来の王家や、貴族達の権威を認めて、彼らに、その代行をさせた。

間接的、統治機構を作り上げたのである。

 

その時代、オランダが、バリ島を理解したのは、ヒンドゥー教徒であり、その社会は、インドに似た、カースト制が存在すると、認識した。

その、土着の機構を、間接統治に利用するべく、僧侶、王族、貴族に属する者と、平民との、区別を明確にした。

 

上層の者達には、強制労働などを、免除し、上位貴族と、平民の間を占めていた、下級貴族たちの不満を解消するために、彼らを、村の領主として、対処した。

 

これが、今でも、バリ島の人々の意識を支配するものとなる。

そして、その格差社会である。

貧富の差が、歴然とした、社会機構となって、現在に至る。

 

ある意味では、戦いに明け暮れていた、バリ島の、平和が、植民地化により、落ち着いたという、皮肉でもある。

 

その、植民地時代に、統治官が、統治に必要とされる、バリ島の伝統的制度、習慣などを記して、出版したことが、西洋人にバリ島理解の手引きを与えた。

 

特に、芸術家たちは、バリ島の人々に、影響を与えたのである。

 

現在の、音楽、舞踊、絵画などの様式も、西洋人によって影響を受け、次第に整ってゆくことになる。

特に、1930年代が、激しいバリ島文化の、変化期だった。

 

オランダの植民地支配の時代も、インドネシアでは、各地で、独立への、戦争が起こったが、オランダ支配を揺るがすまでには、至らなかった。

 

バリ島では、そのような、事実は、無い。

 

太平洋戦争時代に、一時的に、日本の占領時代がある。

その時、バリ島は、日本軍の、食料調達の島として、搾取された。

それは、バリ島始まって以来の、欠乏生活だったといわれる。

 

日本の敗戦により、インドネシアの独立への、熱が高まり、バリ島も、独立戦争の舞台となる。

激しい戦闘が続いた。

 

その中に、敗戦後の、日本兵が加わったことが、意外な事実として、知られている。

要するに、脱走兵となり、インドネシア独立戦争に加担したのだ。

 

彼らは、このように考えたと、言われる。

日本は、インドネシアを独立させるために、占領したが、その約束を果たすことなく、逆に、インドネシアを苦しみの中に、置いた。

これでは、日本は、裏切り者とされる。

自分は、その汚名を晴らすためにも、インドネシアの人々と共に、戦うと。

 

1949年の、ハーグ協定により、スカルノ大統領率いる共和国政府が、独立を獲得する。

翌年、バリ島も、共和国政府に参加して、インドネシアの一員となる。

 

そこで、問題になったことは、イスラム教徒が、大勢を占めるインドネシアで、バリ島は、ヒンドゥー教であり、どのように、それを保持してゆくかということであった。

国の、宗教政策に沿って、バリ島でも、教義や、祭司制度が、整えられてゆく。

これについては、以前の旅日記に書いているので、省略する。

 

1970年以降、バリ島は、インドネシア随一の、国際観光地と位置づけられ、観光客の、誘致制作が、取られた。

それは、外貨獲得という、明確な、目的のあるものである。

 

それにより、バリ島自身も、伝統芸能の、掘り起こしを行った。

伝統的という言い方がされるが、実際は、常に新しく、生まれていると、言ってもよい。

 

その心は、伝統的であるが、観光客が目にするものは、すべて、それを踏まえた新しい文化である。

 

バリ島は、文化を創り続けていると、言える。

 

そして、問題は、山積みである。

 

観光誘致を掲げたが、果たして、観光地として、整備されているのかと、言えば、あまりの疎かな面が目立つ。

 

まず、下水道整備が、不足で、河川の汚染が甚だしい。

そして、ゴミ問題である。

全く、ゴミの量に対して、その処理が、追いついていない。

 

更に、緩やかに流れる、カースト制をベースにした、差別意識である。

それが、貧富の差を生み続けているが、それの、解決策は、見当たらない。

 

内陸部の、貧しい人々は、職を求めて、観光地化された、クタ・レギャン地区に集うが、支払われる給料は、50万ルピアから100万ルピアが、最も多い。

日本円にすると、5千円から、一万円程度である。

 

勿論、日本の金額は、日本の国の目安であり、バリ島では、普通のことである。

しかし、五年前から、物価が、五倍以上になっているが、給料は、変わらない。

 

義務教育は、あるが、お金がなくて、学校に行けない子供が多くなっている。

授業は、無料であるが、後の物は、すべて、買わなければならない。

その、お金が無いのである。

 

16歳の、マッサージ嬢は、内陸部出身で、学校には、行ってないと言う。

日々の生活をするのが、やっとである。

だから、料金を払うと同時に、チップを要求した。

 

クタ・レギャンに出ると、観光客を見て、我が身の貧しさを、身に染みて知ることになる。

そして、その原因は、何であるのかを、知ることが、出来ないでいる。

 

成り上がることは、至難の業であるというより、決して、成り上がることは、出来ないのである。

 

しかし、一つ、面白い話がある。

 

日本で、退職した人を受け入れる、退職者ビザというものを、インドネシア政府が、発行したのが、五年前である。

それに、準じて、バリ島に住むことを希望した、日本人たちが、バリ島の土地所有するために、バリ人に、頼むことになる。

 

外国人は、土地を所有出来ないからだ。

その際、信用あるのみで、日本人は、優しく、親切なバリ人に、依頼して、土地を手に入れた。しかし、名義は、バリ人である。

それが、命取りになり、何と、すべての日本人が、土地を、名義貸しした、バリ人に取られたという。

 

見事に、皆が皆、裁判で負けたのである。

それ以前に、契約書を、用意しなかったゆえである。

それほど、バリ人には、やられる。

彼らの、持つ、緩やかな、そして、人の良い雰囲気に、やられてしまう。

勿論、すべての、バリ人ではないが、土地所有に関しては、すべての信用が、裏切られたのである。

 

その日本人達は、声を上げない故に、それらの、事実は、知られない。

バリ島も、一筋縄では、ゆかないのである。