日本兵がバリで義勇軍に参加し、戦ったことを、平良は生前「日本人の罪滅ぼし」だとよくいっていた。
マルガーの南、ブルンブンガン村に松井、荒木の記念碑ができたとき、平良はこう語った。「あれで、彼ら自身の罪は贖った。日本の兵隊たちが独立戦争に参加して犠牲になっていることで、日本人に対するインドネシア人の感情を少しでもやわらげる面があると、私は思うんです」
平良もインドネシアの統治は悪い面ばかりではなく、良い面もあったことを、大勢のバリ人戦友から聞いていた。老人たちは、日本が侵入したおかげで、自分たちは独立する機会を与えられたと平良に話したという。
「日本の軍隊が自分たちを鍛えてくれたために、たとえ弾に当たっても、辛抱強く独立戦を闘うことができたと、彼らはありがたがっていたんです」
それでも、平良は、インドネシアが独立できたのは、日本や、そこに参加した日本兵のおかげてはない、と断言していた。
「ただ少しだけ、日本が(脱走)日本兵が、役にたったかもしれません。私たちが脱走兵と呼ばれるのは仕方ありません。脱走兵だろうと、なんだろうと、私たちのやったこと(脱走し、独立戦に参加したこと)が、間違っていなかったことを、日本政府に理解していただければ、私はそれでけっこうです。死んだ戦友の霊も浮かばれると思います」
平良は奇妙なことに英雄としての証がない。ジャワやスマトラの残留日本兵は独立戦争で戦った証である独立英雄勲章をもらっているが、バリでは日本兵で勲章をもらったものは一人もいない。平良が受けたのは退役軍人の恩給だけで、毎月七万八千ルピア(約千円)だった。
サムライ、バリに殉ず インドネシア独立戦争の英雄になった旧日本兵の記録
坂野徳隆 あとがき、より、抜粋
沖縄、宮古島で生まれた、平良定三さんは、2004年、6月に、バリ島で、83歳で、亡くなった。
マルガラナの英雄墓地への、追悼慰霊は、前々から、希望していた。
念願叶って、今回、出掛けることが出来た。
勿論、誰に、邪魔された訳ではないが、時期当来していなかったのだろう。
ウブドゥから、車で、マルガ英雄墓地に向かった。
マデさんと、テラハウスの土地所有者である、家長、お父さんが、一緒だった。
ほとんど、英雄墓地には、人が来ないという。
勿論、観光客など、来る訳が無い。
子供達が、学校教育の一環として、一度は、訪れるというのみ。
墓地には、1372名の墓が、いくつかの区画に分けられて、整然と建つ。
墓標には、名前と、出身地、死亡年月日が刻まれ、キリスト教徒は十字架、モスリムは、半月、バリ人は、卍の印がある。
日本兵は、バリ人と同じである。更に、名前も、バリ名である。
卍が描かれた墓標には、Jepangと彫られた11名の、日本兵のものがある。
中心には、バリ島の英雄、ングラ・ライの墓がある。
ングラ・ライ部隊は、94名で、全員が死ぬまで戦い続けたという。
彼の名前は、バリ島の国際空港名ともなっている。
私は、そこで、御幣を作り、ングラ・ライの墓の前で、祝詞を献上した。
そして、太陽に、拍手を打ち、その墓地の清め祓いを、執り行った。
更に、日本兵の皆様に、語り掛けた。
この、墓地は、実は、墓といわれるが、本当の墓が別にある人々も多数いる。
それでは、この場所は、どういう場所なのかといえば、日本の靖国神社と同じ、形式なのである。
独立戦争を戦った兵士を、奉るという形式である。
別に墓があっても、なお、ここにおいて、彼らを、讃える、追悼慰霊する場所ということなのである。
靖国神社と同じなのである。
靖国も、兵士の名前のみが、奉られる。
その他のものは、何も無い。
中には、遺品なども、奉納される場合があるが、基本的には、名前のみが、奉られる。
更に、それぞれの、宗教によって、印されるという形式は、戦ったということにより、統一されている。
靖国も、色々な宗派の人が、奉られるのである。
宗派によって、云々というものではない。
戦没者ということで、統一される。
それを、伝統に則り、慰霊の所作を、行うということである。
であるから、日本の場合は、拍手を打ち、祝詞を献上して、追悼慰霊を行う。
マルガ墓地も、そのようにある。
毎年、11月20日の、記念日には、そこで、追悼慰霊祭が、行われる。
それは、1964年の、その日、マルガでオランダ軍の総攻撃に遭い、全滅した日である。
その墓に、納められている日本兵の遺骨は、すべて、平良さんが、収集したものである。
インドネシアで、亡くなった日本兵の死因は、様々なものがある。
しかし、ここでは、それを省略する。
遺骨が残っている人は、幸いだった。
汗だくになりながら、私は、広い墓地の中を、何度も、清め祓いをした。
想念の清めであり、祓いだった。
それぞれの求めるべくの、霊位の場所に、引き上げられるべくの、祈りである。
勿論、それは、私の勝手な行為である。
自己満足の、何物でもない。
ただ、私は、それを行為することによって、私に成るということである。
長年、探し続けてきた、私の行為である。
一緒にいた、お父さんも、運転手のワヤンさんも、ングラ・ライの墓に手を合わせていた。
マデさんは、墓地には、入らなかった。
ワヤンさんが、事の終わった私に言う。
先生は、バリにいれば、司祭ですね、と。
要するに、私の行為を、バリ風に、理解したのだ。
戦争犠牲者の追悼慰霊を、執り行う私は、実は、その慰霊地での戦禍について、私なりに、書きまとめたいと思っている。
だが、今更という気持もある。
多数の、良書があるからだ。
私の行為は、私が死ねば、終わるものである。
それで、いいと、思う。
昼を過ぎて、腹が空いた。
それじゃあー皆で、ご飯を食べましょうと、声を掛けて、マルガ墓地を後にした。
しかし、私は、もう一度、ここに慰霊に来るつもりになった。
誰に気兼ねすることなく、もう一度、慰霊の儀を、執り行いたいと思った。
というのは、フィリピンの時もそうだが、その時、どのようにして慰霊するのか、という形が、浮かぶのであるが、マルガでは、中々、ピンとこなかったのだ。
ただ、最後に、キリエレイソンが、浮かんだので、主よ憐れみ給えと、何度か唱えた。
キリスト教徒のためである。
しかし、まだ、何か、別の方法があると、感じたのだ。
更に、その一帯が、激戦地となったのであるから、その一帯を、清め祓うことも、必要だと、感じた。
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