木村天山旅日記

  悲しみを飲み込んだハ
  
平成21年6月 

 

第3話

翌朝、朝食をとっていると、昼間は、非常に暑いということで、それでは、朝のうちに、行動したいと、街中に出てみることにした。

 

ちなみに、予定としては、明日、追悼慰霊を執り行う予定である。

場所は、ロンビエン橋である。

ベトナム戦争の際に、もっとも、利用され、攻撃を受けた橋である。

今は、鉄道が走る。

何度も、修理が行われて今に至るのである。

 

ただ、ハノイに到着してから、随分と体が重いのである。さらに、心も、何か、沈みがちである。不穏な空気が、漂う。

 

朝早く、街に出た。

すでに、人々は、活動をはじめている。

 

持ち物は、挨拶程度の、ミニカーである。

街の男の子たちに、手渡し、その反応を見るもの。

 

ところが、驚いた。

最初の、物売りの子に、差し出すと、ノーと、言われたのである。

予想しない、反応に、納得しない。

 

母親と、おばあさんと一緒にいた、子に差し上げる。

すると、母親も、おばあさんも、喜んでくれた。

ホッとする。

 

しかし、また、断られる。

道端で、父親と一緒に食事をしていた子に、差し出すと、受け取ってくれた。

 

おおよそ、半分が受け取り、半分が、受け取りを拒否する。

 

今までにない、反応に、少し、たじろいだ。

親からも、ノーと言われることもあった。

 

何故か。

 

知らない人から、物を貰うな、である。

そして、物を貰うという判断は、親、大人の、許可がいるのである。

これは、儒教の教えである。

 

ベトナムは、千年に渡り、中国の支配を受けた。そして、その後は、フランスの、統治である。

 

戦争後、はじめて、ベトナムは、独立国家として、成った。

まだ、30年を過ぎたばかりである。

 

人の哀れみは、乞わない。

毅然として、姿勢を保つ。

そして、戦争に勝った国としての、誇りである。

ベトナム語の発音のゆえもあるが、背筋がまっすぐ通っている。

 

一時間ほど歩いて、本当に疲れた。

探りを入れつつ、手渡してみるのである。

拒否される時は、駄目だと、思う。

 

ハノイでは、支援をするのが、大変難しい。どんなに、欲しいと思っても、いらない、ノーという人がいるのである。

矜持、プライドである。

 

それを、まざまざと、見せ付けられて、私たちは、どこまで歩いたのか、解らなくなり、街の、コーヒー屋に入り、休んだ。

 

15000ドンのコーヒーである。

ベトナムコーヒーは、濃い、そして、苦さの中に、甘さがある。

最初、コータが、ミルク入りを注文したが、甘すぎる。

私は、コーヒーのみを、注文した。

 

それに、お湯を足してもらう。

兎に角、美味しい。

 

大勢の街の人と共に、コーヒーを飲んで、私たちも、町の人になる。

着物を着ていても、別段、騒がれないというのも、ハノイらしい。

結果的に、気が楽である。

 

居場所が、分からなくなったので、タクシーに乗ることにした。

タクシーに、二種類ある。

ミニタクシーと、普通タクシーである。

料金は、メーター制である。

 

初乗りが違うが、使い方を考えて乗るといい。

中距離は、普通タクシーがいいが、短距離は、ミニタクシーである。

 

ホテル近くで、降りた。

 

ホテル付近の様子を、何度も頭に入れた。

込み合っている街の中であり、非常に、紛らわしい道々である。

 

部屋に戻ると、異常な疲れである。

 

コータが、今までにないことを、言う。

今日、慰霊をしましょう、と、言うのである。

 

慰霊は、明日する予定である。

 

どうした

いや、何か、慰霊をした方がいいような・・・気がする、と言う。

 

私も、同じだった。

 

ベトナム戦争と、言うが、それは、実に複雑である。

アメリカとの、戦いは、第二次インドシナ戦争である。

 

サイゴンに、樹立した政権は、アメリカの傀儡政権であり、反共カトリック勢力指導者、ゴー・ディン・ジェムを大統領とするもので、ベトナム共和国政府を擁立した。

 

その結果は、北緯17度の暫定軍事境界線で、南北に分断された。

 

南の、ジェム政権は、ジュネーブ協定が予定していた、1956年の全国統一選挙を、拒む。

旧ベトナムの人々、反対勢力を、すべて武力で弾圧し、住民の八割を占める仏教徒を、露骨に差別する。

ベトナム労働党は、60年、平和的手段による、南北統一を諦め、ジェム政権の武力打倒を目指す、南ベトナム解放民族戦線を結成した。

 

第二次インドシナ戦争である。

 

これを、多くの人、ベトナム戦争と呼ぶ。

対米戦争である。

 

解放戦線は、多くの住民の共感を得て、ジェム政権を窮地に、追い込む。

さらに、63年、ジェム政権は、軍上層部のクーデターで、崩壊する。

 

すると、アメリカは、サイゴンに、次々と、無能な、軍事独裁政権を擁立し、それでも、敗北が必至とみると、65年に、直接軍事介入に、踏み切るのである。

 

南への、地上軍派遣と、北への継続爆撃である。

 

さらに、である。

タイ、フィリピン、オーストラリアなどの、アジア、太平洋地域の、米同盟国がアメリカ側に立って参戦する。

日本も、非参戦の西側諸国も、物心両面で、アメリカを、全面的に、支援した。

 

この戦争で、米軍の使用した、弾薬は、第二次大戦の、2,5倍の、爆弾だけでも、住民六人に、一トンが、投下されたという。

 

ベトナム全土は、枯葉剤を含む最新兵器の実験場となり、地形が変わるほど、焦土と化した。

 

南の農村と、海岸都市は、おおかた壊滅した。

南北住民の半数以上は、戦争難民となり、軍民の死者は、推定300万人、別の調査では、400万人以上である。

行くへ不明は、今なお、30万人。

アメラシアン、つまり、米越混血児は、30万人。

韓越混血児は、1万人。

売春婦は、サイゴンと、その周辺だけで、人口の一割を超える、40数万人である。

 

それだれではない、悲劇は、続く。

その後、米ソ、中ソの、二重冷戦を背景とする、第三次インドシナ戦争、ベトナム・カンボジア戦争、中越戦争、カンボジア武力紛争が、待ち受けていたのである。